2008年10月18日

高杉晋作の心の拠り所 谷梅処(うの)

baisho.jpg谷梅処尼は明治維新後の名前で通称おうのという。おうのは天保十四年、呉服商の娘として生まれるが幼い頃に没落し十一歳で下関裏町の堺屋に「この糸」という名の遊女となった。文久三年、高杉晋作が藩命で下関の白石正一郎邸で「奇兵隊」を組織し幹部を引き連れ堺屋で宴会を開いたがその席でおうのと出会ったらしい。晋作には萩で雅という美人の妻がいたが、おうのはおっとりした性格で忙しく国事に奔走する晋作の心の拠り所だったという。下関で共に暮らし、あの有名な都都逸「三千世界のカラスを殺し、主と朝寝がしてみたい」を詠ったのもこの頃だと言われている。晋作は下関開港を計画したことから攘夷派と俗論党の両方から命を狙われた時も、おうのを片時も放さず四国の日柳燕石邸に匿われ共に暮らした。しかし晋作は知合って僅か四年で肺結核の為死去し、おうのは二十四歳で独りになった。伊藤俊輔(博文)や山県狂介(有朋)は相談し、貞操観念の薄いおうのが後に浮名を流すことがあれば晋作の名前に傷がつくと考え、山県狂介(維新後は山縣有朋)が住んでいた無隣庵を贈り僧堂のして、おうのに出家させ梅処尼として晋作の墓を守った。後に伊藤博文、山縣有朋、井上馨の寄付により無隣庵のとなりに東行庵を設立おうのは明治四十二年に六十六歳で亡くなるまで四十二年間晋作の墓を守った。おうのの維新後の名前の谷梅処は晋作が藩主より賜った谷姓を相続し晋作が最も愛した花の梅の字を入れた梅処とした。


posted by こん at 23:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 長州藩 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:


この記事へのトラックバック

広告


この広告は60日以上更新がないブログに表示がされております。

以下のいずれかの方法で非表示にすることが可能です。

・記事の投稿、編集をおこなう
・マイブログの【設定】 > 【広告設定】 より、「60日間更新が無い場合」 の 「広告を表示しない」にチェックを入れて保存する。