2008年10月17日

高杉晋作の妻・雅

masa.jpg高杉晋作の妻の雅は井上平右衛門の次女として生まれた。井上平右衛門は石高五百石の家柄で山口町奉行を勤めていた。石高二百石の高杉家よりも家格が上だった。雅は萩城下では評判の美人で他家からも多くの縁談話が持ち上がっていたのを決めかねた父・平右衛門は何本かの紙こよりを作り雅に引かせ見事高杉晋作を引き当てたらしい。晋作はあまり乗る気が無く三十歳までは結婚する気がないといっていたが、孝行者の晋作は父・小忠太に説得され安政七年、二十二歳で十六歳の雅と結婚した。新婚初夜を済ますと早々と長州藩が建造中の大型軍艦(とはいっても蒸気機関は備えてない大砲が三門ほどの船)丙辰丸に乗り込み江戸へ遠洋処女航海に出た。雅と晋作の結婚生活は僅か六年ほどで一緒に暮らしたのは二年足らずであった。しかし跡継ぎの嫡男・梅之進(後の東一)が生まれ高杉家は安泰となった。晋作は国事に奔走し、挙句の果てに愛人まで作って雅のことはないがしろにしているかと言えばそうではない。晋作は行く先々で雅に愛情あふれた手紙を送っていた。「読書をしなさい」と本を贈ったり、藩からもらった旅費で反物や帯を買って贈っている。また、武士の妻たるものは和歌を詠めるように細かいアドバイスをした。雅は晋作の死後、二十年経って「文見ても読まれぬ文字はおほけれど なお懐かしき君の面影」という歌を詠んでいる。高杉家は明治維新後、東京に移った。雅は嫡男の梅之進(東一)の養育につとめたが、時々萩から晋作の愛妾・おうの(谷梅処尼)が訪ね来て交流があった。梅処尼は東京に出た時は高杉邸に宿泊し読み書きが出来ないので雅が代書していたという。雅は晋作と死別したのは二十二歳の時でまだ若く美人で評判だったので、何故再婚しなかったのかは解らないが(坂本龍馬の妻・お龍は再婚した。)高杉は生前「私が死んでも再嫁せず高杉家を守ってほしい」と手紙を書き送っていた。都合のいい話だが雅はこの言葉を守り続け、長男東一を看取った後の大正十一年に七十七歳の生涯を閉じた。


posted by こん at 22:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 長州藩 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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