2008年10月16日

維新最大の功労者で革命児 高杉晋作

高杉.jpg高杉晋作は天保十年、長門国萩城下菊屋横丁に家禄二百国取の藩士・高杉小忠太の長男として生まれる。小忠太は上士として藩政に携わる戦国時代から毛利家に仕えた家柄のプライドの高い男であった。晋作は弘化三年に八歳で寺子屋・吉松塾に入り後の親友久坂玄瑞と知合う。嘉永五年、上士の子息が通う藩校・明倫館に入学するが、安政四年に久坂玄瑞の誘いで吉田松陰が主宰する「松下村塾」に入門、両親は何かと問題の多い松陰の塾に通うのを反対したが、晋作は両親が寝静まったのを見計らって夜道を通って猛勉強した。学問を単なる知識としてだけでなく実践すること説いた松陰に傾倒し、生涯の師と仰いだ。万延元年、晋作は二十三歳で山口町奉行井上平右衛門の次女・雅子と結婚。政子の回顧録によると美人で評判の政子は縁談が引く手あまただった為くじ引で晋作の嫁になったらしい。晋作は藩命で江戸へ遊学し大橋訥庵塾や昌平坂学問所に入った。丁度この次期、師の松陰は老中間部詮勝暗殺計画の罪により小伝馬町の牢に投獄されていた、晋作はここで松陰の世話をしながら教えを受けた。「男子たる者の死」について質問の手紙を出し「死は好むものでも憎むべきものでもない、死して不朽の見込みあらばいつでも死ぬべし、生きて大業に見込みあらばいつまでも生くべし」との返事をもらい、晋作のその後の死生観に大きな影響を与えた。安政六年に晋作は藩命により帰藩、その後松陰は処刑される。この訃報を聞いた晋作ら松下村塾の者は幕府打倒を涙ながらに誓ったという。文久二年、藩命で幕府使節随行員として長崎から中国の上海へ渡航、清国が欧米の半植民地化の実情を見聞し帰国、攘夷の必要性を痛感し、同志と共に品川御殿山で建設中のイギリス領事館を焼き討ちし、また罪人の咎で処刑された吉田松陰の遺骨を白昼堂々と小塚原から運び出し途中の上野の三枚橋にさしかかったとき晋作は真ん中を通った、中央は将軍しか渡れぬ御留橋だったので橋役人が血相を変えて飛び出してきたので「よいか、これは勤皇の志士・吉田松陰先生の遺骸である。勅命を戴いてまかり通る」といって大槍を振りかざし世田谷若林村大夫山に移し改葬する。この過激な行動で幕府を刺激するのを恐れた長州藩は晋作を江戸から召還する。江戸を出立した晋作はまたしても事件を起こした。今度は箱根の関所破りをやってのけた。また京都で将軍家茂が天皇のお供で賀茂神社に攘夷祈願に行幸したが晋作は「よっ!征夷大将軍」と大声で叫び周囲を驚かせたりもした。文久三年、長州藩は関門海峡を通過する外国船の砲撃を行うが逆に反撃に合い惨敗する。下関防衛を任された晋作は廻船問屋白石正一郎邸において身分に拘らない志願兵による画期的な軍隊「奇兵隊」を組織し、開闢総督となるが、教法寺事件(奇兵隊と藩士からなる先鋒隊との殺傷事件)の責任をとり罷免される。京都において八月十八日の政変で長州藩が追放され、文久四年には来島又兵衛らによる京都進撃説得の為、晋作は京都へ行くが臆病者と罵られ失敗、脱藩して京都に潜伏する。桂小五郎の説得で帰藩するが脱藩の罪で野山獄に投獄、その間に蛤御門の変で敗北し長州藩は朝敵となり来島又兵衛は戦死、親友の久坂玄瑞は自害して果てた。また、外国船砲撃の報復のためイギリス・フランス・アメリカ・オランダの4カ国連合が下関を砲撃し砲台を占拠する。晋作は直ちに赦免され善後処理を任され講和条約の正史として仰々しい一等礼服の烏帽子直垂を着込み筆頭家老宍戸刑馬と名乗って条約を締結するがただひとつ「彦島の租借」だけは拒絶した。晋作は古事記を朗々と語り相手が根を上げ諦めたという。長州藩は幕府による第一次長州征伐が迫る中、俗論派が藩政を牛耳り正義派を弾圧し始めたので晋作は身の危険を感じ福岡へ脱走、野村望東尼の平尾山荘に匿われた。しかし、晋作が最も信頼した正義派家老の周布政之助の切腹を聞き急ぎ帰藩、奇兵隊に挙兵を説得するが総督になっていた赤根武人や山県狂介(有朋)に断られ、伊藤俊輔(博文)が率いる力士隊ら少数で功山寺にて挙兵する。後に奇兵隊の加勢(赤根武人総督は逃亡)俗論派の首魁椋梨藤太を追放し藩の実権を握る。晋作は下関開港を推し進めた為、攘夷派と俗論派の両方から命を狙われ愛妾・おうのを連れ四国へ逃走、日柳燕石に匿われる。桂小五郎の斡旋により帰藩した。慶応元年、高杉家を廃嫡され「育(はぐくみ)」扱いになっていた晋作は藩主の命で谷潜蔵の名を頂戴し、知行百石の谷家を興す。(明治維新後、谷家は愛妾おうのが名乗り谷梅処尼となった)慶応二年、土佐の坂本龍馬や中岡慎太郎の仲介で薩長同盟が締結されると晋作は伊藤俊輔と共に薩摩へ行き丙寅丸を購入(おてんとうさま丸ともいう)第二次長州征伐(四境戦争)には海軍総督として丙寅丸に乗り込み周防大島沖に停泊していた幕府艦隊に夜襲をかけこれを退け、周防大島を奪還する。小倉方面では戦闘指揮を取り奇兵隊、報国隊を上陸させ幕府軍の砲台や火薬庫を破壊、敗走させた。将軍家茂死去の知らせを受けた幕府軍総督の小笠原壱岐守が戦線離脱したため幕府軍は敗北となった。晋作は勝利の余韻が残る中、血を吐き肺結核が悪化し桜山で療養生活に入った。慶応三年、父母や妻・雅と嫡男・東一が枕元に駆けつけたが、深夜野村望東尼や山県有朋が見守る中息を引き取った。「おもしろき こともなき世を面白く」と辞世を詠んだところで力尽き望東尼が「すみなすものは こころなりけり」と付け加えた。


posted by こん at 14:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 長州藩 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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