2008年10月13日

異色の新撰組隊士 三浦啓之助

keinosuke.jpg三浦啓之助は本名を佐久間恪次郎という。嘉永元年に父は開国派の知識人として知られた佐久間象山で母はその妾・お蝶の間に生まれた。義母で勝海舟の妹・お順の姓・三浦を名乗った。元治元年、父・佐久間象山に随行して上洛するが、父・象山が暗殺されてしまう。象山の弟子で会津藩士の山本覚馬に仇討ちを勧められ、伯父の勝海舟の口添えで新撰組に入隊する。身分は平隊士であったが、勝の口添えであり佐久間象山の子息ということでもあるので格別な待遇であったらしい。しかし、亡父譲りの傲慢な性格のため土方歳三や沖田総司に目を付けられる。はじめはおとなしくしていたが次第に芦屋登ら仲間と粗暴な振る舞いが多くなり、土方より祖国・松代藩に帰藩するように促さるが啓之助はこれを拒んだ。ある日、沖田総司から「二人で飲みにいきませんか」と誘われた為、粛清されると思い芦屋登と共に脱走する。その後、明治に入ってから勝海舟の紹介で鹿児島に帰っていた西郷隆盛に預けられるが二年ほどで江戸へ帰ってくる。明治四年、佐久間恪(いそし)と改名福沢諭吉の慶応義塾に入ったらしい。明治六年、町娘・ますと結婚し長男継述をもうけるが早世した。恪は象山門下の渡辺驥の世話で愛媛県司法省十二等出仕、県庁聴訴課付となる。愛媛の松山に単身赴任したが河内うたとの間に娘・小松が生まれ、松山裁判所判事として在職中の明治十年に二十九歳で急逝した。死因はうなぎ料理による食中毒、酒乱の果てに庭の池に落ちて溺死したともコレラによる病死など色々な説があるが結局死ぬまでお坊ちゃまであった。
posted by こん at 00:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 新撰組 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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