2008年10月04日

長州藩御盾隊 品川弥二郎

sinagawa.jpg品川弥二郎は天保十四年、萩藩の検断人(検死)の父・品川弥市右衛門と母・まつの子として生まれる。安政五年、吉田松陰の松下村塾に入門、安政七年に井伊直弼の安政の大獄の巻き添えで松陰が刑死する。その後、弥二郎は高杉晋作や久坂玄瑞と共に尊王攘夷運動に加わりる。高杉晋作や久坂玄瑞、井上馨ら11名で御盾組を結成し英国公使館焼き討ちなど過激な行動を起こす。また下駄に「薩賊会奸」と墨で書き、踏みつけて歩いたといわれている。元治元年、禁門の変では八幡隊隊長として戦い敗れるも囲みを破って長州へ帰り山田顕義らと御盾隊を結成する。(御盾組とは別組織)慶応元年、桂小五郎(木戸孝允)と共に上京、薩長同盟の連絡役を務め慶応二年の同盟成立後は薩摩藩邸で人質として滞在する。慶応三年、長州藩三十人通りに昇格した弥二郎は岩倉具視や薩摩の大久保利通と会見し錦の御旗と倒幕の密勅を託される。
戊辰戦争では御盾隊を率いて出陣、奥羽鎮撫総督参謀としても活躍した。維新後は渡欧して晋仏戦争を視察、帰国後外務関係に尽力、明治二十年には師・吉田松陰の遺命を忘れず、京都に攘夷堂を建立する。宮中顧問官・御料局長として皇室の財産形成に力を入れた。明治二十四年、第一次松方内閣の内務大臣に就任、松方の命で管轄下の警察を動員して選挙干渉を行い死傷者を出した。このことで国民から非難され引責辞任をした。渡欧時に学んだ信用組合の設立や独協学園や京華学園の設立などに貢献し明治三十三年に肺炎のため五十八歳で死去する。戊辰戦争のときに歌った「宮さん、宮さんお馬の前でひらひらするのはなんじゃいな・・」で有名なトコトンヤレ節は弥二郎が作ったといわれている。


posted by こん at 22:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 長州藩 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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