2008年09月23日

近藤勇を救おうとした男 有馬藤太

有馬藤太は天保八年に鹿児島城下に薩摩藩砲術師範・有馬藤太(同名)の長男として生まれる。小野郷右衛門の飛太刀流を習い師範代を勤める実力を持ち抜刀術の達人といわれている。薩摩藩の山本勘介と評判の名参謀・伊地知正治に引き立てらる。慶応四年の戊辰戦争で東山道総督府の斥候を命じられ香川敬三隊に従軍し宇都宮へ向かう。途中、流山で旧幕府軍は駐屯しているとの情報で出陣し甲陽鎮撫隊(新撰組)ほ陣屋を包囲、降伏してきた局長・近藤勇を馬にのせて粕壁(現・春日部)の本営から板橋の本営まで護送した。この時、近藤の潔い態度に感銘し上司である参謀・伊地知正治に向けて手紙をつけ、自分が戻るまで近藤の処分を保留し、相応の待遇を頼んだ。有馬藤太はそのまま進軍し結城城奪還や板倉勝静捕縛などの活躍を見せる。しかし藤太の留守中に功を焦った土佐藩の谷干城が近藤を斬首し首を京都に送ってしまった。藤太はこれを非常に悔やみ「近藤は敵であったが徳川にとっては忠臣。朝廷に牙を剥く男でもなかった。」と土佐藩を厳しく罵ったという。その後、香川敬三隊に復帰し壬生城の戦いで獅子奮迅の働きをするが、全身数箇所に銃弾を浴び重傷を負い横浜の病院に送られる。明治新政府では功績を認められ弾正台、司法省官吏で出仕したが、征韓論で下野した西郷隆盛に従って野に下り銀座煉瓦街で代言屋(弁護士)をはじめる。明治十年の西南戦争直前に桐野利秋に手紙を送り、私学校沸騰の統制を求めたが西南戦争が勃発すると大阪にて有志を募り挙兵して西郷軍に加わろうとするが事前に情報が漏れ捕縛され、投獄される。一年後に出獄し、民間企業に就職するが、満州にわたって虎公園の管理人などをする。晩年、東京に戻り世田谷にて他界。享年八十八歳
posted by こん at 21:09| Comment(4) | TrackBack(0) | 薩摩藩 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
有馬藤太の男気いいですね。こんなところが時代小説、歴史小説の面白さ、醍醐味です。
Posted by 根保孝栄石塚邦男 at 2011年02月04日 06:37
近藤勇の魅力は、どこにあったのか。終生幕府の先鋭として新撰組を率いて戦った彼であったが、その時代感覚はどのようなものであったのか。
幕藩体制を死守することを使命としてしていたのか、それとも時代に目覚めながら、やむをえず幕藩体制を守ろうとしたのか。
勝海舟のように幕藩体制は旧いと認識しながら、幕府の最期を看取った立場だったのか。
Posted by 根保孝栄石塚邦男 at 2011年03月22日 07:57
幕末の志士たちは、世界の動き、情勢につき、われわれの考えている以上に精通し、知識も豊富であった。

Posted by 根保孝栄・石塚邦男 at 2013年01月25日 03:22
 ふと、「有馬藤太」の名が脳裏を掠めた。54年前で18歳の時、三船敏郎主演の映画「赤毛」の一場面。颯爽と馬で参上し、名乗るシーンが記憶に残っていたからだろう。藤太役は中村錦之助が演じていた。さっきネットで調べ、実在の人物と知り、役職まで一致していたのに驚き。映画で忠実に再現されていたのですね。人を観る目を備えていた人物と確認した。
 11月前半。鹿児島〜熊本を旅行する予定。西郷さん終焉の地・城山を散策するつもりなので、合わせて、藤太の足跡を探訪できる地があれば、模索したい。激動の時代。何と88歳まで生き抜いた彼の人生に、着目せずにおれない。情報があればよろしく。
Posted by 遠藤博明 at 2023年10月14日 08:24
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