2013年10月29日

「鹿鳴館の貴婦人」会津藩山川家の末娘 大山捨松

2013041419415654e.jpg大山捨松は会津藩の国家老・山川尚江重固の二男五女の末娘・山川咲として安政七年に生まれた。生まれた時には既に父・重固は亡くなっており祖父・重英が親代わりとなり重英亡き後は長兄・大蔵(後の浩)が親代わりとなった。知行高千石の裕福な山川家で育ったが咲が八歳のとき会津戦争が勃発し籠城戦を家族と共に戦い幼いながら負傷兵の手当てや炊き出しなどを手伝ったり城内に着弾した敵砲弾の不発弾を濡れ布団で押さえて消す「焼玉押さえ」を手伝った咲は負傷し義姉(山川大蔵の妻)は亡くなった。(後に夫になる大山巌は会津鶴ヶ城を攻める側だった。)会津藩が降伏し山川家は家族で斗南藩へ移住するも賊軍の汚名を着せられた厳しい生活の中、末娘の咲は函館の沢辺琢磨のもとに里子に出され、その縁でフランス人夫婦の家に引取られて生活するようになる。明治四年、アメリカ視察から帰国した北海道開拓使次官の黒田清隆はアメリカで見た男女が同じ仕事に汗をかいている姿に感銘を受け(当時日本は男尊女卑が当たり前だった。)日本の若者をアメリカに留学させるのに異例の男女若干名として女性の留学生も募集した。山川家はこの官費留学を名誉挽回の絶好機と見て次兄・健次郎を留学させるが当初女子留学生の応募は殆どなかった。十一歳になった咲は利発でありフランス人との生活で西洋文化に慣れ親しんでいるという様々な理由といざという時には次兄・健次郎もいるということから留学生に応募し岩倉使節団に随行する。山川家では母・艶は十年もの長い期間の留学なので捨てる気持ちで待つという意味合いをこめて名前を咲から捨松と改め送り出したという。アメリカに着いた五人の女子留学生達の内年長の二人は西洋の生活に馴染めずホームシックや病気の為に一年を待たずに帰国してしまうが年少の捨松十二歳、津田梅子九歳、永井しげ十歳ら三人はアメリカ生活に馴染み捨松はコネチカット州ニューへブンのリオナード・ベーコン牧師の家庭での滞在になった。(永井しげは捨松と同じところのアボット牧師の家、津田梅子はジョージタウン「現・ワシントンDC」の日本弁務官書記で画家のチャールズ・ランカンの家庭へ預けられる。)ベーコン家で捨松はゲストとしてではなくベーコン家の14人の兄弟姉妹の末っ子として育てられ十六歳でキリスト教の洗礼を受けた。特に2才年上のアリスとは年が近いこともあって大変仲がよく生涯の付き合いであったという。捨松は地元ニューヘブンのヒルハウス高校を経て永井しげと共にニューヨーク州ポキプシーで大学生活に入る。永井しげが専門科である音楽学校を選んだが捨松は英語を完璧にマスターしていたため通常科で名門のヴァッサー大学へ入学、この全寮制女子大学でサムライの娘SUTEMATSUは優秀な成績を収めその美貌もあって大学2年の時には学生会の学年会会長に選出され優秀な頭脳を持った生徒しか許されなかったシェイクスピア研究会やフィラレシーズ会(真実を愛する者の会)に入会している。全学生通年成績3番目の「偉大な名誉」の称号を得て卒業する。卒業式に際して卒業生総代の一人に選ばれ卒業論文「英国の対日外交政策」を講演しその格式高い英語力と秀逸性から地元新聞に全文掲載された。卒業後日本では北海道開拓使が廃止され滞在理由がなくなり帰国命令が出されていたが捨松は滞在延長を申請し許可されるとコネチカット看護婦養成学校に通い1年で上級看護婦の免許を取得した。(この前年にアメリカ赤十字社設立に強い関心を寄せていた。これは幼少の頃に遭遇した会津戦争鶴ヶ城籠城で幼いながらも負傷兵の手当てや義姉の登勢が苦しみながら死んでいく姿を目の当たりにしたことが影響されたかもしれない。)明治十五年に日本の大学で教職に就く夢や日本赤十字に携わる夢を見て帰国した捨松は日本が今だ男尊女卑の風習が色濃く残っていることに絶望する。しかも十一歳という幼い時期の渡米で日本語も上手に話せす漢字は殆ど出来ない状態だった、当時は10歳代で結婚が当たり前の時代に23歳をむかえ親友のアリス・ベーコンに就職も出来ず婚期も遅れていると愚痴った手紙を送っている。そんな頃、妻を亡くし三人の娘を抱えた大山巌が永井しげ(瓜生繁子)の結婚披露宴で捨松を見て一目惚れしたという。(前妻は同じ鹿児島薩摩藩の精忠組出身の吉井友実の長女・沢子で三人の女子を出産後産後に体を壊し亡くなったので舅の吉井が大山を不憫に思い後妻を探していたところアメリカの名門大学で優秀な成績を残しフランス語やドイツ語も話せる捨松に白羽の矢が立ったとも云われている。当時の外交交渉は夜会や舞踏会でも夫人の存在は重要だった。)吉井友実を通じて山川家へ縁談を申し込むがにべもなく断られる。その理由は明らかで会津藩家老の家柄の山川家では会津戦争で一家一族の多くが薩摩藩兵に殺され当時当主の山川浩(大蔵改め)の妻も殺されている。その攻撃の砲兵隊長だった大山に大事な妹を嫁がせる訳がなかった。しかし大山も諦めず今度は従兄弟で農商務卿の西郷従道が説得に乗り出した。山川浩は二度三度と追い返すが西郷従道の誠心誠意の説得に我山川家は賊軍ですのでと断るが従道は「おいの兄さあ西郷隆盛も賊軍でごわす。自分も大山も賊軍の身内で同じ立場ではごわはんか」と粘った。山川は最後は「捨松本人次第」と譲歩する。捨松は一度あってみたいとデートの提案をした。当時、女性側からデートの誘いとは前代未聞のことだったが大山は大喜びで捨松と会う。薩摩なまりの大山と日本語があまり流暢に話せない捨松(アメリカ滞在中は日本語を忘れないようにと時折留学中の次兄・健次郎と会ったり永井しげとは日本語で会話をしていた)も英語での会話が捨松の心を和ませ(大山は英語は勿論、ドイツ語やフランス語も流暢に話せた)何度かのデートを重ねるうちに親子ほど年の離れた大山の心の広さや茶目っ気たっぷりのジョークで捨松も次第に恋心を抱くようになっていった。。アメリカで姉妹のように育った親友のアリス・ベーコンに捨松は「私は今やっと未来に希望が持てるようになりました。」からはじまり「たとえ家族がどんなに反対しても私は彼と結婚します。」と締めくくる惚気のような手紙を送った。交際三ヵ月で結婚となった二人は当時新築したばかりの「鹿鳴館」で結婚披露パーティーを開いたが案内状の全文はフランス語だったという。以後大山捨松となりその凜とした姿は「鹿鳴館の華」と讃えられ巌は仕事が終わると寄り道など一切せず真っ直ぐに妻や子供達のいる家へ帰り家族を大事にしたという。結婚二年後、捨松は政府高官夫人たち数名で共立東京病院(現・慈恵会医科大学病院)に見学に行った際に男性の雑用係が女性患者の世話をしている姿を見て愕然とした。アメリカでは考えられない情景だった。捨松はすぐさま院長の高木兼寛に看護婦養成学校の必要性を提案し院長も自分のイギリスセントトーマス病院に留学しナイチンゲール看護学校をつぶさに見学し必要性を感じていたが現実的に資金がないことを告げる。捨松は政府高官の妻達を何度も訪問し説得を繰り返し鹿鳴館でチャリティーバザールを開催することを提案し捨松自ら陣頭指揮を取った。(日本では物を売るのは身分の低い商人がすることで上流階級の人間がすることではないと皆が反対したが西洋では当たり前のことで上流階級だからこそ慈善事業を行うべきだと説得した。)鹿鳴館慈善会バザーを開催し3日間の開催で12000人の入場者となり当初の目標1000円をはるかに越える8000円という利益を上げた。このお金を全額共立東京病院の高木院長に寄付し2年後には有志共立東京病院看護婦教育所(現・慈恵看護専門学校)を設立される。このことを知った伊藤博文の要請を受け華族女学校(学習院女学部)の設立に尽力し親友の津田梅子やアリス・ベーコンを教師として招聘し日本の女子教育の発展に期待したが出来上がった家族女学校は旧態依然とした男尊女卑の儒教的道徳教育で捨松たちを失望させた。明治三十三年、親友の津田梅子が女子英学塾の設立の相談を受け瓜生繁子(旧姓・永井しげ)やアメリカに帰っていたアリス・ベーコンに協力を頼んだ。華族女学校の時に失望した経験から自分たちの手で何処からも制限を受けないように誰からの援助も受けない理想の英学塾、後の津田塾大学が創設された。しかし経営資金の不足により瓜生繁子やアリス・ベーコンはボランティアで教師を務め捨松自身は顧問として塾の運営に積極的に関与し後に理事や同窓会長もつとめた。日清戦争が勃発すると捨松は戦傷者の看護を呼びかけ自らも活動を始め日露戦争では夫・巌が満州軍総司令官という重責を担って戦っているさ中、妻・捨松は鹿鳴館出の人脈を活かし華族の夫人、令嬢を率いて募金活動や戦傷者の為の包帯作りなどを率先して行い、アメリカで取得した上級看護婦の資格を生かして日本赤十字社での戦傷者の手当てなどのしたという。また、アメリカの新聞社や週刊誌に戦争の経緯、日本の立場や苦しい財政事情などを寄稿してアメリカでの親日家を増やしていった。アメリカで集まった義援金はアリス・ベーコンを通して捨松のもとに送られ慈善活動費に使われた。日露戦争終結の仲介に入ったアメリカ政府高官は「この戦争で日本に有利な結果をもたらしたの要因の1つは大山捨松の活躍にあったからだろう」と言わしめた。大正五年、夫・巌は糖尿病からくる胃病から胆のう炎を併発し七十五歳出なくなり国葬が行われる。その後は一切表舞台には出なくなった捨松だが親友の津田梅子が病に倒れると混乱する女子英学塾に乗り込んで陣頭指揮を取り学校運営を安定させると引退した津田の後任塾長就任を見届けた翌日に捨松は流行していたスペイン風邪で倒れ回復することなく五十八歳の生涯を閉じる。津田梅子が女子教育に生涯を捧げ一生独身を貫きアリスベーコンもまた父の影響で人種差別や女子教育に夢中になり婚期を逃がし生涯独身だったことを思えば捨松は大山巌というすばらしい伴侶に恵まれ先妻・沢子が生んだ三人の女の子と自分が産んだ二男一女の六人の子供(二人の女の子は流産や幼くして亡くなっている)を分け隔てなく育て上げ(先妻の子供も「ママちゃん」と呼んで懐いていた。)幸せな家庭を築いた。{徳富蘆花は「不如帰」で捨松をモデルに意地悪な継母にしたて義娘・浪子を結核を理由に離れに押し込め不幸な死に方をした小説を書き誹謗中傷した。これが評判になり捨松はいわれなき中傷を受けた。)実際には先妻の長女・信子は結核により嫁ぎ先の三島彌太郎とその母に一方的な離婚を申し付けられ実家に帰った後は看護婦の資格がある捨松の親身な介護を受け病状が小康な時を見計らって夫・巌と家族三人で関西旅行を気分を和ませたという。(親友の津田梅子は三島彌太郎宅へ押しかけ母親に猛抗議したという。)捨松が亡くなる数日前に徳富蘆花から謝罪があったというが遅きに失した。
posted by こん at 09:33| Comment(5) | TrackBack(0) | 会津藩 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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