2013年09月30日
会津鶴ヶ城攻撃の砲兵隊長で後に山川捨松の夫になった 大山巌
大山巌は天保十三年に薩摩藩鹿児島城下の加治屋町に父・薩摩藩士大山綱昌の次男として生まれた。父・綱昌は西郷隆盛の父である西郷隆充の弟(大山家に養子)であるので西郷隆盛、従道兄弟とは従兄弟に当たる。六歳のときに「郷中」(薩摩藩独特の青少年団のようなもの)に入り、当時郷中のリーダーだった十六歳年上の西郷隆盛の指導により死を恐れず事にのぞむ姿勢や男として卑怯な振る舞いを嫌うリーダーとしての身に付けていった。青年になると薩摩藩精忠組(西郷隆盛や大久保利通らがはじめ近思録を輪読する会から尊皇攘夷を経て倒幕思想に発展した)に入り十九歳のときに有馬新七らと倒幕決起の為に京都寺田屋に集結していたところを説得に来た同じ勢忠組同志の斬り合いとなり急進派の有馬新七ら六名が死亡、二名が負傷したが二階にいた大山巌、西郷従道らは鎮撫派の大山綱良の説得により投降することになった。(寺田屋騒動は薩摩藩精忠組の急進派が藩父・島津久光が千名の藩士を引き連れて上洛するに及んで倒幕の先駆けになろうと集まったが久光自身は倒幕の考えはなくあくまで公武合体を進めようと思っていたので有馬ら急進派を自身で説得しようと大山綱良らを遣わしたといわれている。このとき西郷隆盛は説得の為急ぎ京都を目指していたが久光の命に逆らったということで逮捕され鹿児島に連れ戻されていた為精忠組の指導者はいなかったのが原因だといわれている。)大山巌はその後三年の謹慎を言い渡されるが生麦事件を発端として薩英戦争が勃発、巌は従道と共にスイカ売りに化けて敵旗艦に近づき攻撃を加え乗っ取り作戦を企てたり砲兵として戦ったが西洋兵器の前にはあっけなく敗北した。巌はその後、砲術の重要性を痛感し江戸へ出て高名な兵学者だった江川太郎左衛門に学び日本の砲兵術の第一人者となった。鳥羽伏見の戦いでは右耳に銃創を受けるが戊辰戦争では薩摩軍砲兵隊長として進軍、会津戦争では十二斤臼砲を改良した「弥助砲」(大山巌は維新前まで大山弥助と名乗っていた。)を駆使して戦果を挙げる。鶴ヶ城籠城戦では土佐藩士らが当初担当していたが会津藩籠城藩士達の頑強な守りに苦戦し薩摩軍に応援要請を出した。鶴ヶ城包囲に参加さした巌だが僅か一日で城中からの銃撃で右股を撃ち抜かれ負傷(一説には山本八重の狙撃によるものと云われているが不明で土佐藩軍監小笠原唯八改め牧野群馬が撃たれたとの説あり)したが弥助砲の活躍で勝利した。維新後はフランスに留学し晋仏戦争を視察しスイスに移るが大西郷が征韓論に敗れ下野すると急遽帰国し鹿児島に帰って大西郷と直談判して東京に戻って欲しいと懇願するも西郷に拒否される。ならば自分も残って西郷に尽くしたいと頼むがこれも拒ばまれ西郷から「お前は新政府の為に尽くせ」と叱咤されやむなく東京に戻る。その後、熊本神風連の乱を鎮圧し熊本鎮台司令長官、東京鎮台司令長官を歴任、西南戦争が勃発すると政府軍別働第一旅団司令長官として大恩人・西郷隆盛や郷里の盟友達と戦うことになる。巌は最後の戦いとなる城山の総攻撃の責任者として西郷軍を鎮圧した後、西郷夫人のいとに弔慰金を手渡したが突き返され巌の姉に「何故西郷を殺したのか」と責め立てられたが巌は黙ってうつむいたまま何も答えられなかったという。その後、巌は陽気な性格が一変し無口な男になり生涯二度と鹿児島に帰ることはなかったという。翌年の明治天皇の北陸、東北御巡幸に天皇は大山巌を同行させ「私は西郷隆盛に育てられた。しかし今、西郷は賊の汚名を着せられさぞ悔しい思いをしただろう。私も悔しい・・聞けばその方も幼い時より西郷に育てられたというではないか、これからはその方を西郷の身代わりに思う。」とのお言葉を賜り巌は感涙し「吉之助兄さあの身代わりにならねばと立ち直ったという。」巌は長州閥の山県有朋と共に日本陸軍の発展に尽力し参謀本部次長、陸軍卿を経て第一次伊藤博文内閣から陸軍大臣となる。明治二十七年、日清戦争が勃発し大山巌は陸軍第二軍司令官として出陣し部下に「たとえ敵国民であろうと仁愛をもって接すべし」と訓示し理想とする大西郷の面影を誰もが抱いたという。明治三十七年、日露戦争が始まると大山は後を若い人材に任せ引退を考えていたが内務大臣の椅子を蹴って参謀本部次長に就任した児玉源太郎の説得もあって現地と大本営の中間に位置する満州軍総司令部が設置させその総司令官に大山巌が就任(この人選には明治天皇の指名があり陛下は「山県有朋が適任との声もあったが山県は切れ者でどんな細かいことでも気がつくので軍司令官達は嫌がるだろう。その点、大山はあまりうるさくないので私は適任だと思う。」ということで大山巌は日露戦争の陸軍責任者として現地へ赴く。作戦は信頼できる児玉源太郎参謀次長に任せ責任はすべて大山自身が負うという大西郷並みの人徳で当時世界最強といわれ日本陸軍の数十倍の兵力を持つ帝政ロシア陸軍を打ち破り「大山巌」という名前は世界に知れ渡った。秋山好古少将率いる騎兵第一旅団がロシア軍に包囲されたとの連絡が司令部に入ったとき司令部が慌てふためき様々な情報が錯綜し誰もが冷静さを失い児玉たちの怒声が鳴り響いていた。このとき別室にいた大山のもとにも伝わり自分が指揮を取るしかないのかと思ったがふと「西郷吉之助兄さあならどうするか」と考えとっさに寝巻きに着替えてさっき昼寝から醒めたように「何じゃにぎやかじゃのう児玉さあ、今日もどこかでゆっさ(いくさ)でごわすか?」ととぼけて見せた。みんな顔を見合わせてふきだして笑い冷静さを取り戻して適切な状況判断が出来た。後に児玉源太郎はこの戦争は大山巌でなければ勝てなかったであろうと語ったという。しかしいつもとぼけていたわけでもなく児玉が旅順へ第三軍の督励の為に出張し留守にしている間は参謀会議に出て積極的に指揮を取ったという。凱旋帰国した大山に息子の柏が戦争で一番辛かったことは何か?と尋ねたときに巌は「知っていることも知らない振りをすることかな」と笑ったという大山巌とはそういう男であった。大山を総理大臣にという声もあったがこれを固辞し仕事を終えるとまっすぐに家に帰り妻と子供達を第一に考える巌は部下や使用人に対しても威張ることはなく慈愛を持って接した大山巌は大正四年、愛妻・捨松に看取られ七十四歳の生涯を終えた。危篤状態で意識朦朧で「兄さあ・・兄さあ」とうわ言を繰り返した。捨松は「あなた、やっと西郷さんに会えたのね」と巌の手を握ったという。・・・太平洋戦争後にGHQが日本を占領した時に多くの軍人の銅像を撤去されたがGHQの総司令官・マッカーサーは大山巌の銅像撤去を許可しなかった。マッカーサーもまた大山巌という男を尊敬していたのではないかといわれている。