2013年07月08日
会津藩名門家老家の悲劇 内藤家一族
内藤家は会津藩の名門の家柄で古くは武田信玄の家臣で「武田二十四将」の一人「内藤修理亮昌豊」に嗣子がいなかった為に高遠城主・保科弾正忠正敏の次男を迎えて相続させた。この内藤家は時代が下り徳川の世になると「保科正之」(徳川二代将軍・秀忠の庶子として生まれ保科家に預けられる)の臣下として会津藩に入り大老職など重要ポストを担った。戊辰戦争当時は内藤介右衛門信節が十一歳で内藤家(家禄千七百石後に二千二百石に加増)を相続し戊辰戦争の時に会津藩家老を務めた。内藤信節(のぶこと)は天保十年、会津藩内藤家9代目として誕生した。弟に梶原平馬(梶原家に養子)、武川信臣(内藤家は本家だけが内藤姓を名乗り傍流は武川姓を名乗るのがならわしだった)がいる。藩主・松平容保が京都守護職を拝命すると内藤信節は二十三歳で京都勤番となり二年後に若年寄に昇進、禁門の変の時に八隊千人の兵を率いて長州藩を撃退したが後の警護を薩摩藩に任せた為に藩主の叱責を受け若年寄を解職、蟄居謹慎させられる。翌年には復職し若年寄から家老になった。(この時に実弟・梶原平馬も家老になる。)慶応三年、会津藩は京都守護職の辞任を申し入れたが聞き入れられなかったので会津から内藤信節と梶原平馬が上京し老中・板倉に直談判し藩主の一時帰国を承諾させた。しかし、鳥羽伏見の戦いが始まるや将軍・慶喜の大阪城入城に伴い守護職屋敷を土佐藩に引き渡して大坂に下る。信節は直接鳥羽伏見の戦いには参戦せず枚方、守口方面へ戦場視察に出かけたがその間に将軍・慶喜と共に藩主・容保が大坂城を抜け出して江戸へ帰ってしまう。内藤信節はこの藩主不在を堅く口止めし急いで江戸へ向う。(会津の藩士たちが戦っているさなかのこの藩主東帰騒動の責任を取って神保修理が切腹した。)この後、奥羽越列藩同盟に実弟・梶原平馬と共に成立させ白河口の総督を罷免された西郷頼母に代わり信節が総督となるも会津戦争時に勢至堂方面の陣将として出陣したが母成峠が破れ城下に敵が押し寄せるとの報を聞き大平口の原田対馬隊を吸収して1000人余りの大部隊となって鶴ヶ城に入り三ノ丸の守備を担う。この時期に内藤家一族は入城出来ずに菩提寺のある川面村に非難したが新政府軍が菩提寺である泰雲寺辺りを包囲した為にもはやこれまでと一族十二人が揃って自決するにいたった(隠居していた内藤信節の父・信順、母・とも(つや)、信節の妻・ふさ(ひさ)、信節の長男・英馬、娘・ひで、妹のとく、つぐ、姪と叔母の計九名と家臣四名と上田家の五人が泰雲寺書院にて自刃した。会津藩降伏後、謹慎生活を終え斗南藩移住し藩の存続に尽力するが廃藩置県後、多くの藩士が会津に帰るが内藤信節はそのまま青森県五戸村に残り土地の開拓や子供達の教育に生涯を捧げ六十一歳で没した。今でも「内藤田」という地名が残っている。次弟の梶原平馬は斗南藩の移住後廃藩置県で青森県になると庶務課長となるがその後北海道根室に後妻・貞と共に移住しこの地で亡くなった。末弟の武川信臣兄弟の中でも温厚な性格で和歌を得意とした。鳥羽伏見の戦いで敗れ江戸に引き揚げたが会津藩の帰藩命令に従わず彰義隊の幡随院分屯の信意隊隊長となり二人の兄が会津藩家老となった為に藩相殿と呼ばれ八十人余りの隊士を率いて奮戦するも新政府軍に破れ再起を図って江戸市中に潜伏し佐々木只三郎の実弟・佐々木源四郎邸で密談中に小者に使っていた宗兵衛の裏切り密告により新政府側の鳥取藩士に捕縛される。(この騒ぎで応対に出た源四郎は玄関で射殺される。)武川信臣は元会津藩上屋敷のあった和倉門の獄に幽閉され彰義隊士で会津藩家老の弟という事で烈しい拷問を連日受け続けたが会津武士の意地を通し得意の和歌を残した。「君と親の重きめぐみにくらぶれば、千引の石の責はものかは」(信臣は三角木の上で正座をさせられ、ひざの上に大石を幾つも積み重ねられる「石抱きの責め」を連日に渡り行われ骨は砕け皮膚は破れ肉が裂けても黙して語らなかったという。)明治元年、大赦令が出る三日前に斬首される。享年二十四歳・・・
2013年07月03日
白虎隊士中二番隊の悲劇を生んだ隊長 日向内記
日向内記は文久九年に会津藩上級武士・日向三郎右衛門(禄高七百石で会津藩内に十家ある日向家の総本家といわれている)の長男として生まれ諱は次法といい通称を内記といった。会津藩が京都守護職拝命後は京都に滞在、蛤御門の変では番頭組の組頭として戦功をあげ家老附組頭に昇進、会津藩軍制改革で朱雀士中二番隊中隊長になったが山川大蔵が若年寄りに抜擢されたのでその後任として砲兵隊隊長に任命され日光口に配属された。その後、日向内記は藩主警護の任にあった白虎隊士中二番隊中隊長に任命され藩主・容保に従って滝沢本陣に入った。(この人事に関しては不明な点が多く、何か最前線にあった砲兵隊隊長が任務に不手際があったのか更迭のような人事だったという。)新政府軍が迫る中、戸之口原が危ないとの知らせを受け急遽白虎隊士中二番隊は戸之口原に出陣し翌朝の戦に備え夜営を張った。食料調達の為(これは飯沼貞吉の証言のみ)か近くの本営・佐川官兵衛隊との打ち合わせのためか内記は白虎隊の少年達を置いて一人で隊を離れた。(このことが日向内記が少年達を置いて敵前逃亡したとのそしりを受ける)強清水村にある本営での作戦会議?の帰りに翌未明の激戦に巻き込まれ赤井谷湿地で敵弾を頬に受け帰隊出来ないまま指揮官のいない白虎隊士中二番隊はバラバラになり一部が飯盛山での自決した。(このことを内記が知ったのは会津藩降伏後のことだったという)日向内記は士中二番隊を探しながら鶴ヶ城まで戻り籠城戦に加わることとなったがこの時に郡上藩凌霜隊も日向内記の指揮下に入った。(日向内記は戻ってきた白虎隊士中一番隊と二番隊を1つにまとめた合同隊の隊長として西出丸の守備についた。)会津藩が降伏開城後に謹慎を経て明治三年に斗南藩移住の新藩主・松平容大(容保の嫡子で当時二歳)の警護役として従ったという。その後、内記は家族と共に移住したが廃藩置県で斗南藩が消滅すると会津に戻るも知人を頼って喜多方に移住したが定職には就かず六十歳の生涯を閉じた。(会津や喜多方でも二十名近くの少年を死に追いやった敵前逃亡者、卑怯者のそしりを受けたが一切の言い訳をせずその後も会津藩主の名誉回復のために奔走し多という。もし、本当に日向内記が少年を見捨て敵前逃亡をしていたなら鶴ヶ城には戻らず行方不明になっているはずだし郡上藩に見捨てられた「凌霜隊」が志願して日向内記の配下に入ったりはしなかったと思う。やはり日向内記は責任感、人望共にある優秀な指揮官だったのではと自分は思う。ただ、前任の山川大蔵が桁外れに優秀であったためにどうしても比べられ見下されたのだと思った。白虎隊に関しても直ぐに戻るはずがあまりにも新政府軍の侵攻が早く少年兵の心の動揺を考慮出来ずに悲劇を招いた不運が内記の人生を狂わせた。)