2013年05月16日
八重の桜 山本八重の最初の夫 川崎尚之助
川崎尚之助は但馬国出石藩の藩医の子と云われている。(実際は藩士ではあったが身分が低く町医者をやっていたらしい)天保七年出石本町で川崎才兵衛の第二子か三子(はっきりとした記録がない)として誕生する。兄の恭介が家督を相続した為尚之助は16,7歳で江戸へ出て杉田成卿や大木仲益(後の坪井為春)に師事し蘭学、舎密学(化学)を修めてかなりなの知れた洋学者となった。会津藩から江戸へ遊学に来ていた山本覚馬とは大木仲益が開いた大木塾で知り合い、意気投合したといわれている。安政四年、会津藩に帰った山本覚馬は藩校・日新館の教授に就任し蘭学所を設立したことを知った尚之助は会津藩に赴き覚馬を訪ねた、覚馬は藩に尚之助を推薦して蘭学教授として山本家に寄宿するようになった。尚之助は蘭学所から分離した砲術教授となり会津藩から大砲方頭取を要請され十三俵扶持を賜る。元治元年、京都にいた山本覚馬は一触即発の京都に西洋式鉄砲に精通した尚之助を招聘しようと会津藩に要請するが藩士ではない川崎尚之助を京都に差し向けるわけには行かないと断られる。慶応元年、会津藩は蛤御門の変で西洋式鉄砲の優位を認めようやく会津藩士に取り立てとなった尚之助は山本八重と結婚する。(正式な結婚かどうかは詳細は不明だが山本覚馬は会津藩に優秀な砲術家を引き止めておく手段として八重と結婚させたという説もある。)鳥羽伏見の戦い直後に米沢藩士・内藤慎一郎と小森沢長政が会津藩を訪れ尚之助に弟子入りをした。(当時、近隣諸国では米沢藩だけが西洋式鉄砲を導入、他藩は今だ火縄銃を使っていた。)米沢藩はさらに43名もの藩士を送り鉄砲術の指南を請い、その世話を山本家がすべて見たという。新政府軍が東北に向って進撃を開始するや米沢藩士は帰国するが内藤新一郎や小森沢長政ら数人は山本家に寄宿して会津藩との連絡係となった。鳥羽伏見の戦いで弟・三郎の死と兄・覚馬の行方不明を知らされた。会津に迫る奥羽越列藩同盟軍も持ちこたえることが出来ず父・権八も戦死した。八重は弟の袴を履き、兄から贈られたスペンサー銃を担いで出陣するも女の身ではそれもかなわず籠城戦の側女中として入城、一方で夫・尚之助は定かではないが諸説あり、城内で砲撃の指揮を取ったとも離婚して逃亡したとも言われているが城外で戦ったのでないかと思う。詳細はわからないが敢死隊副隊長として戸ノ口原で新政府軍を迎え撃ったが隊長・小原信之助が斃れたので隊長として指揮をとったが敗走、城内へ一旦退却するが敢死隊を率いて豊岡神社に布陣、小田山より城へ砲撃してくる新政府軍に大砲を仕掛けことごとく命中させ一時後退させたという。また、最後まで籠城したが降伏の条件通り他の会津藩士とともに男子は猪苗代にて謹慎となった。(八重ははじめ男装してついて行こうとしたが直ぐにばれ会津に残ったという。)翌年、他の藩士と共に東京で謹慎を続け八重ら山本家とは連絡がつかない状態が続いた。(八重と母・佐久、兄嫁・うらとその娘・みねは会津の家が新政府軍に没収されていた為に山村の山本家奉公人の家にしばらく身を寄せたが青森斗南藩国替えには同行せずに会津戦争前まで山本家に寄宿していた米沢藩士・内藤新一郎を頼っていった。この時点の記録ではまだ八重は川崎尚之助妻となっている。)尚之助は東京で謹慎を解かれたが他の藩士とは違い直ぐには斗南藩には戻らず一旦京都に滞在したというが詳しくは解らない。明治三年、尚之助は海路斗南藩に向かった。一方八重たち山本家は会津に戻っていたが明治四年に兄・覚馬が京都府の顧問をして生きているとの情報が入り一家で京都に向った(覚馬の妻・うらだけは離婚をのぞみ会津に残ったという。)山本家とは連絡を取れない尚之助は青森斗南藩士として仕えていたが三万石なれど作物もろくに獲れない貧しい土地で食料に乏しい藩民を救済する為「開産掛」を任され米調達の為に同じ藩士の柴太一郎と共に北海道へ渡った。(この時点で尚之助と八重は完全に別の道を歩んだがまだ離婚したということではなかったらしい)尚之助は函館で自称・斗南藩士を名乗る米座省三(実際には信州商人で詐欺師みたいなことをしていた)と知り合い彼の紹介でデンマーク商人デュークと広東米の先物取引を成立させた。(斗南藩には購入する現金がないため栽培中の大豆を担保にした。)しかし金に困っていた米座省三はこの先物手形を持ち出しこれを担保にブランキントン商会から借金して逃亡する。米座の借金返済がなければ広東米を受け取れなくなった。米座は東京で逮捕されたが斗南藩の大豆栽培がうまく行かず不作となり手に入った広東米も古米となってしまい米相場の下落もあって返済が出来なくなり当然デンマーク商人デュークから訴えられる。外国人の絡んだ裁判とあって法廷は東京で開かれ尚之助と柴太一郎は東京へ移送される。斗南藩はこの取引には一切関係ないと突き放し尚之助もまた個人的取引だと藩を庇ったという。身元引受人が三回も変わるトラブルや今日食べる物もない貧困生活の中、体調が悪化し重い慢性肺炎に罹った。三人目の身元引受人・根津親徳が東京医学校病院(現・東京大学医学部附属病院)に入院させたが明治八年三月に治療の甲斐なく永眠した。享年三十九歳・・・この時点で尚之助の戸籍には八重の名前はなかったという。(この裁判で八重たち山本家に迷惑がかかることを恐れた尚之助が離婚として抹消した土肥う説もある。)しかし、晩年の八重は尚之助との最初の結婚について「離縁した」とだけ言って一言も語らず会津での結婚生活を生涯話すことはなかったという。