2011年12月17日
「諸葛亮孔明」にたとえられた英雄 児玉源太郎
児玉源太郎は嘉永五年、周防国都濃郡徳山村の長州藩支藩の徳山藩士(百石取の中級藩士)・児玉半九郎の長男として生まれる。父の半九郎は尊皇攘夷の思想を持っていたために幽閉され悶死したと伝えられ、嫡男の源太郎が幼かった為に徳山七士の一人・浅見家から養嗣子に迎え源太郎の姉・久子と結婚して児玉次郎彦が親代わりとなって源太郎を育てたという。しかし、第一次長州征伐の時に自宅で保守派に暗殺され児玉家は家名断絶となる。藩論回復後に藩主の命によって七士達の名誉が回復され児玉家も二十五石ながらも再興が許され源太郎は中小姓として出仕して同年に馬廻りとなる。明治元年、献功隊士として戊辰戦争に出陣(初陣)し安芸口の戦いに参加し函館戦争にも従軍した後に陸軍に入りフランス式歩兵学修行の為に京都の河東操練所に入学し大坂兵学寮に入るが山口藩奇兵隊の反乱が起きると鎮圧の為に帰国する。大坂兵学寮卒業後の明治七年に起こった佐賀の乱には陸軍大尉として従軍するが負傷する。明治九年、熊本鎮台準官参謀の時に神風連の乱の鎮圧、翌十年に同鎮台副参謀長として西南戦争熊本城篭城戦で谷干城鎮台司令長官をよく助けて西郷軍を50日間の攻防の末に撃退した。この西南戦争で盟友・乃木希典は連隊旗を西郷軍に奪われる大失態を恥じて何度も自殺しようとしたが山県有朋と児玉は説得をして思い止まらせたという。(児玉源太郎は長州藩の支藩である徳山藩出身だが乃木希典は同じ長州藩支藩出身でも長府藩の出で松下村塾創設者の玉木文之進(吉田松陰の叔父)の親戚で明治政府では松下村塾閥のエリート待遇だったが児玉は乃木を親友、ライバルとして絶えず意識していたという。)明治十一年に近衛局に出仕して参謀となる。翌年に陸軍歩兵中佐に昇進
2011年12月04日
バルチック艦隊を破り英雄になった 東郷平八郎
東郷平八郎は弘化四年、鹿児島城下加治屋町の薩摩藩納戸奉行・東郷実友の四男として生まれ郷中の西郷隆盛の次弟・吉次郎に大変可愛がられたという。十四歳で元服、十九歳で分家して一家を興す。薩英戦争に従軍して英国艦のアームストロング砲に威力を見せ付けられ「海から来る敵は海にて防ぐべし」と海軍の重要性を悟った。戊辰戦争では薩摩藩海軍三等士官として薩摩藩軍艦「春日」に乗り込み新潟・函館を転戦し阿波沖、宮古島湾、函館湾海戦に参加して海上砲撃や五稜郭への艦砲射撃の経験を積んだ。維新後の明治四年、イギリスへ官費留学してウースター商船学校にて操舵術などを習う。(はじめ留学の志願を大久保利通にしたが断られ、諦めきれない平八郎は西郷隆盛に頼んだところ平八郎の才能を見抜き快諾したという。その後は西郷隆盛に心酔したという)七年間のイギリス留学中に国際法を習得したが帰国途中の海上で西南戦争を知り西郷の最期を聞き「もし私が日本にいたら西郷のもとにはせ参じただろう」と涙したといわれる。(平八郎の兄・東郷四郎兵衛実猗や次兄・小倉壮九郎{城山攻防戦で自決}は西南戦争の時に薩軍として西郷のもとで戦った。)明治十一年、海軍中尉、大尉、翌年には海軍少佐となり元勤王の志士として西郷や大久保利通らと薩摩精忠組を結成した海江田信義(幕末には有村俊斎と名乗り生麦事件でイギリス人チャールズ・リチャードソンに止めをさした人物で日本陸軍の創設者・大村益次郎の暗殺事件の黒幕ではないかといわれている。)の長女・てつ(十七歳)と結婚する。{海江田信義と東郷家とは縁が深く次女も平八郎の長兄・四郎兵衛実猗と結婚した。}明治十八年に中佐、翌年に大佐と昇進を重ね、横須賀鎮守府兵器部長、明治二十四年に呉鎮守府参謀長になりその後巡洋艦「浪速」艦長になり二十六年居留民保護の為にハワイホノルル港に派遣される。(当時ハワイはれっきとした立憲君主制独立国家であり「リリウオカラニ」女王が治めていたがハワイに入植していたアメリカ人のクーデターの為にアメリカの軍艦「ボストン」が王宮に主砲を向けて女王退位を迫りました。東郷は自分の巡洋艦「浪速」と一緒に日本入植者保護の為に来た「金剛」で米艦「ボストン」を挟んで停泊して威嚇してアメリカとハワイの併合を見送らせ共和国という形を取ったといわれている。東郷はアメリカの卑劣な行為を看過できなかったという。結局、女王は流血を嫌い退位に署名しハワイ王国は滅亡した。)翌年にハワイ共和国設立一周年式典に再び東郷平八郎はハワイを訪れたがハワイ政府からの「国際儀礼の祝砲21発の要請」に「その必要なし」と突っぱね他国の軍艦もこれにならったのでアメリカが大恥をかかされ後に日本を仮想敵国の見なした原因のひとつといわれている。しかし、ハワイに住む人々からトーゴーは英雄のようにもてはやされ自分の子供の名前に「トーゴー」とつけるのが流行ったらしい。明治二十七年、日清戦争に突入まえの豊島沖海戦の高陞号事件(詳細は山本権兵衛の項目で)にて国際法に基づいた冷静な対応でイギリスを納得させ翌年に海軍少将に昇進し常備艦隊司令長官となる。日清戦争終結後に海軍大学校長兼将官会議議員となり中将となり佐世保鎮守府司令長官、翌年に新設された舞鶴鎮守府初代司令長官に任命(この時期、留学中に食べたビーフシチューの味が忘れられず調理長に手書きのレシピを渡して作らせたのが肉じゃがの始まりだといわれているがその十年前に呉に赴任した時とも言われ論争がいまだ続いている。)明治三十八年、日本とロシアの関係が悪化し戦争が避けられない状況に陥った頃、病気療養の為に予備役編入が噂されていた東郷に突然、山本権兵衛・海軍大臣から連合艦隊司令長官の大命が下る(通常、常備艦隊司令長官の日高壮之丞海軍中将が戦時に編制される連合艦隊指令長官になるのが当たり前だったが山本権兵衛大臣は日高を舞鶴鎮守府に更迭し東郷と入れ替えた)日高壮之丞中将と山本権兵衛は戊辰戦争のころよりの親友なので山本のこの仕打ちに激昂した日高は短刀を持って山本に詰め寄ったが山本から「お前は確かに東郷より優れた司令長官だ!しかしその優秀さゆえに大本営に相談することなく独断で行動し勝利することもあったが国運のかかったこの度の戦はそれでは困る。しかし東郷にはそれが無く目的達成の為、任務に忠実だから東郷を推した。」といって日高を納得させたといわれているが本当は日高海軍中将は健康を害しており舞鶴鎮守府長官に就任後から日露戦争中は療養を続けていた。明治三十七年に日露戦争開戦、東郷平八郎は旗艦「三笠」に座乗し連合艦隊を率いて佐世保港を出航しロシア太平洋艦隊(ロシア帝国第一艦隊)に八度の攻撃と基地である旅順港に三度の閉塞作戦を指揮したが成功にはいたらなかった。肯定的に見れば旅順港に立てこもったロシア艦隊を動けなくして近海の制海権を奪い朝鮮半島での外交交渉を有利に進めることができたが否定的に見れば閉塞作戦失敗で大陸の陸軍に大規模投入が出来なくなり多くの犠牲者を出したといわれる。その後の黄海海戦である程度の戦果を残した。同年に海軍大将に昇進し翌年には日本海においてヨーロッパから回航してきたバルチック艦隊を迎え撃ち丁字戦法や「トウゴーターン」でこれを撃破し一躍英雄となった。(特にロシアの脅威に晒されていたトルコなどの国では我がことのように喜ばれた。)また「皇国の興廃此の一戦に在り、各員一層奮励努力せよ」のZ旗は昭和の太平洋戦争にも使われた。平八郎はその後、海軍軍令部長、軍事参議官を歴任し日本海海戦の軍功により大勲位菊花大綬章、功一級金鵄勲章並びに金千五百円を賜わり大正二年には元帥府に列せられて終身現役となる。翌年に東宮御学問所総裁となり皇太子(昭和天皇)の教育につとめた。しかし平八郎の最晩年は生神さまのように祭り上げられ軍部の独裁政治の象徴のように東郷元帥の言うことだからと軍部の拡張が進み各地でいろいろな問題を起こして軍国主義国家へ日本が変貌していった。これは東郷平八郎の意思とは関係なく軍部の生きたみこしになっていったことは残念なことだと思う。東郷平八郎は日露戦争前は艦船の主砲命中率の悪さを軍事訓練の積み重ねで飛躍的に命中率を上げ日本海海戦の勝利へと導いたが晩年まで巨大艦砲中心の固執し続けて飛行機の重要性を無視したために昭和期の大戦ではゼロ戦などの優れた戦闘機の使い方を誤らせたといわれている。(これは東郷平八郎自身の意思とは関係なくみこしに担がれたことによる老害)昭和九年、平八郎は膀胱がんのために八十七歳の生涯を閉じた。死の前日に侯爵に昇叙され国葬となった。