2011年11月30日

日本海軍を作った男 山本権兵衛と愛妻・登喜子

GONNOH~1.JPG山本権兵衛は嘉永五年、薩摩国鹿児島城下加治屋町で薩摩藩右筆兼槍術師範の山本五百助盛a(いおすけもりたか)の六男として生まれる。加治屋町は西郷隆盛や大久保利通、東郷平八郎などの偉人達と同じ出身地で権兵衛も十二歳の時の文久三年に薩英戦争で初陣する。(砲弾の運搬などの雑役として)十六歳の時に十八歳と年齢を詐称して薩摩藩藩兵の募集に採用され薩摩藩小銃第八番小隊に編入される。慶応三年、藩主・島津忠義に随伴して入京、翌年に鳥羽伏見の戦いに参戦し戊辰戦争で越後、奥羽庄内へと転戦し戦功を挙げ鹿児島へ帰藩する。明治二年、藩命で東京へ遊学に出て当時政府の重職にいた西郷隆盛の紹介で勝海舟の薫陶を受けることになる。その時自分の進むべき道は海軍だと志を定め昌平黌(維新後は明治政府が接収し昌平学校として国学や神道を主に教えたが後に閉鎖した)、開成所(徳川幕府が洋学教育の学校として設立し維新後は明治政府が接収して「開成学校」として再興した東京大学の源流となる学校)、海軍操練所(築地にあった旧広島藩邸跡地に出来たが後に海軍兵学寮となり海軍兵学校として江田島へ移転する)明治六年、「征韓論」問題で野に下った西郷隆盛が故郷・鹿児島に帰郷するや桐野利秋(中村半次郎)や篠原国幹、別所晋介らも辞職して帰郷、欧米へ遊学に出ていた村田新八や池上四郎も遅れて鹿児島へ帰る。山本権兵衛も大恩人・西郷の一大事を知るや鹿児島へ帰り西郷に殉ずる覚悟で面会するも日本の未来に海軍がいかに大事か説得され兵学寮へ戻り翌年に卒業し実施研修の為に軍艦「筑波」で台湾やハワイ、サンフランシスコなどを航海し帰国。明治九年にドイツ軍艦「ビネタ号」に乗船しモンツ艦長に出会い生涯の師と仰ぐ、翌年には「ライプチッヒ号」に乗船して各地を周回中に「西南戦争」が勃発して恩人・西郷隆盛が戦死してしまう。帰国後に海軍少尉となった山本権兵衛は海軍士官合宿所の向かいにある遊郭に売られてきたばかりで客をとらされる寸前の女郎だった新潟美人の津沢登喜子に一目ぼれ(津沢登喜子は新潟白根市菱潟村の漁師・津沢鹿助の三女として生まれ生活苦から娘の登喜子を売ったといわれる)勿論、海軍少尉の権兵衛には身請けする金もあるはずなく弟や同僚の協力を得て足抜けさせる計画を練る。当時、足抜けは重罪だから吉原の監視は厳しく四方を高い塀に囲まれている為、築地の海軍兵学校からカッター(小さなボート)を持ち出して連れ出し権兵衛が二十六歳、登喜子十八歳で結婚した。(当時の薩摩出身の士官が士族ではなく平民の娘を妻にすることは異例で周りからの反対にあったが終生権兵衛は妻を愛し続けた。{長州閥では木戸孝允や伊藤博文などが元芸者を妻にしていた。})権兵衛は結婚の四ヵ月前に誓約書を与え教育の受けていない登喜子のために漢字には皆ひらがなをつけるという心遣いを見せた。登喜子も誓約書をよく守り海軍相や総理婦人として鹿鳴館などの社交の場には出るが普段は表に出ることなく派手を好まず1男6女の子女の教育に専念したという。山本権兵衛は薩摩閥として順調に出世していく(一時期、海軍卿・榎本武揚の命によって「乾行」艦乗船を非職されるが直ぐに「浅間」艦乗船を命ぜられる。この件は榎本武揚海軍卿非難排訴運動に関してかどうかは不明)同年に海軍大尉に昇進し明治十五年に砲術教授、同十八年に海軍少佐に同二十年に樺山資紀海事官の欧米視察に随行後に海軍中佐、同年に大佐に昇進と順調に昇り艦船「高千穂」の艦長になり海軍省主事に就任。ここで権兵衛は一大転機が訪れる、明治二十五年の第四回議会で陸軍の予算900万円に対し海軍予算が50万円と「陸主海従」の関係が続いていた。(明治十年の西南戦争以後から続いた旧士族の反政府運動や農民による一揆が続発した為に鎮圧する陸軍の存在が大きくなり陸軍の中心に長州閥が多いので自然海軍の立場が弱かった。)山本権兵衛は海軍大佐ながらこれに異議を唱え「島国の国防は海上権を最優先すべきであるのにわが国は陸が主である。せめて陸海平等にすべきである」と正論をもって海軍参謀本部設立を主張した。(陸軍参謀本部は独立した機関であるのに対し海軍司令部は大臣の下に位置していた。)陸軍の猛反発を受けながら権兵衛は参謀総長有栖川熾仁親王、次長中将川上操六、陸軍大臣・大山巌大将、次官の児玉源太郎、背後の山県有朋らに一歩もひかなかった。10年後に海軍大臣として宮中に参内した時に天皇に上奏して「陸海平等」の大改革をなしえた。また、日清戦争前の豊島沖海戦後に起こったイギリス船高陞号事件の解決に尽力し薩摩閥の実質的後継者と認められる。(この事件はNHKの「坂の上の雲」でも取り上げていたが東郷平八郎が艦長を務める艦船「浪速」がイギリス商船「高陞号」に1200名もの清国兵が搭乗し火砲14門と弾薬を積んでいるのを確認し臨検を命じたが清国兵がイギリス人船長を人質にして反撃、東郷はやむなく撃沈した事件で国際法何の問題も無かった)明治二十八年に海軍参謀官のときにに西郷従道海軍大臣は概況書の提出を命じた。権兵衛は苦心の末書き上げたが西郷海軍大臣は一週間で返してきたので山本権兵衛は海相に「閣下は陸軍では将軍ですが海軍では新参者ではありませんか。私は海軍で生まれ海軍で育ったもので言わば閣下より古参です。その私が七ヶ月かかって調べたものがわずか一週間で解ったもう良いとは何事ですか」と噛み付いた。西郷海相もなるほどと再度読み直したという。その後、海軍中将に任じられ山県内閣で海軍大臣に就任し伊藤博文内閣、桂太郎内閣でも海軍大臣を歴任する。大臣時代は士官に海外留学を奨励し秋山真之や広瀬武夫ら多数の青年士官を留学させた。また明治三十七年、日露開戦を控えて舞鶴鎮守府長官という当時としては窓際的存在で予備役編入寸前だった東郷平八郎を連合艦隊司令長官に大抜擢する。周囲からは「あの凡人である東郷にはこの大任は務まらない」と反対の意見が多くそれを耳にした明治天皇から山本に呼び出しを受けその真意を尋ねられた山本は「東郷は運がいい男ですから選びました」と自信を持って答えた。明治三十七年、東郷平八郎と共に海軍大将に昇進する。大正元年に陸軍大臣・上原勇作が陸軍と内閣の意見が合わないと辞表を提出し後任の大臣が決まらないまま西園寺内閣が倒れ次の桂太郎内閣も短命に終わった為に薩摩閥の元老・大山巌の支持を受けて山本権兵衛が内閣を組閣し総理大臣になるが陸軍と海軍の軋轢など数々の難題とシーメンス事件(ドイツの企業・シーメンスが日本政府相手の贈賄事件が発覚)の責任を取って総辞職し次の大隈内閣では薩摩閥と海軍の力を排除する動きが働き海軍大臣に八代六郎が就任して山本権兵衛、元海軍大臣・斉藤実らを予備役に編入、この人事に反対する東郷平八郎や井上良馨らを退け断行した。山本は「人事は大臣の専管事項、重鎮が口を挟めば将来に禍根を残す」といって潔く編入に従った。大正十二年、海軍を退役、翌年には加藤友三郎総理が死去し後継の内閣を組閣するよう権兵衛に大命が下る。その後「関東大震災」が起こりその翌日に第二次山本内閣が成立する。権兵衛は東京の復興に励むが皇太子裕仁親王(昭和天皇)が狙撃される虎ノ門事件の政治的責任を取って内閣を総辞職し翌年に依願免官した。その後は一切表舞台に出ることは無く昭和八年に今まで病気一つしたことの無い権兵衛は摂護腺肥大症(前立腺がんの可能性大)で病床についていた。いつもは側で看病についている妻・登喜子の姿がある日を境に見せなくなったのを怪しみ妻もまた癌に倒れ臥していることを知る。自分の病名を聞いても顔色1つ変えなかった豪胆な権兵衛持つ間の病状を知るや顔面蒼白となり家のものに行って自分を二階で臥している妻の下へ運んでもらう。権兵衛は妻の手を握りしめて「お互い苦労してきたなあ・・だが私は何一つ曲がったことをした覚えが無い。安心して行ってくれ・・いずれ遠からず後を追って行くからな」と言葉をかけると妻は夫の手をぎゅっと握り返し涙したという。その日に妻・登喜子は天国へ旅立った享年七十四歳・・・夫・権兵衛もその年の暮れに約束通りに後を追って天国へ旅立った享年八十二歳の大往生だったという。
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2011年11月27日

ドラマJIN−仁ーでも活躍 緒方洪庵と妻の八重

Ogata.jpg緒方洪庵は文化七年、備中国足守藩の下級藩士(三十三表四人扶持)・佐伯瀬左衛門惟因(これより)の三男として生まれ八歳の時に天然痘に罹ったといわれる。十六歳で元服し田上セイ之助惟彰(この田上は佐伯家の先祖が一度だけ名乗った姓を用いた)文政八年に足守藩大坂蔵屋敷留守居役となった父に同行して初めて大坂の土を踏む。洪庵は生来体が弱く武士よりも医学で身を立てようと決意し翌年には蘭方医で蘭学者・中天游の私塾「思々斎塾」に入門して蘭学や西洋医学を学び翻訳書を読みふける。(その間に父の転勤に伴って一旦帰藩するが藩の許可を得て上坂し改めて中天游に弟子入りをして名を緒方三平と名乗る。)天保二年、洪庵は二十二歳の時に師匠・中天游の勧めにより江戸へ出て蘭方医・坪井信道の「安懐堂塾」に入門し医学やオランダ語を学びローゼが著した「人体生理学書」を翻訳した「人身窮理学小解」は医学を志す若者達に多く読まれた。洪庵は按摩など今で言うアルバイトをしながら苦学を続け師匠の坪井は見かねて自分の着ていた服をそっと洪庵に着せてやるという師弟愛を見せた。後に坪井信道の紹介で坪井自身の師である宇田川玄真にも学び名を「緒方判平」と改める。その後、備中足守に帰ったが恩師・中天游の死の知らせを受け上坂し恩に報いる為「思々斎塾」で教鞭をとる。その後。天保六年、名を緒方洪庵と改め中天游の嗣子である中耕介を伴って長崎へ遊学の旅に出る。(この費用は「思々斎塾」の先輩で名塩で開業医をしていた億川百記が出した)長崎ではオランダ商館長で医師でもあるニーマンにオランダ医学を学び青木周弼や伊藤南洋とともに「袖珍内外方叢」という薬剤所を翻訳したといわれるが長崎修行時代のことはあまり記録に残っていないらしい。(勉強不足ですみません)天保九年、二十九歳で大坂に帰った洪庵は大坂瓦町に医業を開き「適々斎塾」(適塾)の看板を掲げ蘭学を教える。(恩師・中天遊の「思々斎塾」にあやかって適々斎塾と名づけた。)同年に先輩・億川百記の娘・八重(十七歳)を嫁に迎え後に六男七女の子を儲ける。洪庵は開業二年目にして大坂の医者番付で大関に昇ったその名声に「適塾」には多くの弟子が集まり村田蔵六(後の大村益次郎、維新後の日本陸軍創設者で維新十傑のひとり)や福沢諭吉(慶応義塾の創立者、学問のすすめの著者)、大鳥圭介(幕末の函館政権では陸軍奉行「土方歳三は陸軍奉行並で有名」維新後は学習院院長)佐野常民(日本赤十字の創始者)橋本左内(福井藩主・松平春嶽の懐刀で安政の大獄で処刑)高松凌雲(函館戦争時の函館病院長で敵味方の区別なく治療して同愛社を創始して後の赤十字先駆者となる)、手塚良仙(天然痘治療の為のお玉ヶ池種痘所{東大医学部の発祥地}の創設者のひとりで昭和の大漫画家手塚治虫の曽祖父)など数々の偉人達を輩出し明治元年の適塾閉鎖までに名簿に残された者だけで636人に及び教えを請うた者を含めると数千人もいたという。 弘化二年、瓦町の適塾が手ぜまになった為に過書町(現・大阪中央区北浜三丁目)の商家を買い取り移転した。多くの死者を出した天然痘の予防や治療を研究し嘉永二年、京都で佐賀藩の医師・楢林宗健から種痘を譲り受け大坂古手町(現・道修町)の除痘館を設立して切痘を開始し翌年には出身藩である足守藩からの要請で足守除痘館を開設。ワクチンの不足を補う為に全国186箇所の種痘株分苗所を作ったが闇で牛痘種痘を行う医者が増え医療事故が増えるのを恐れた洪庵は幕府に働きかけて除痘館のみを幕府公認の免許制となる。また大坂にコレラが流行するや「虎狼痢治準」を出版し「家塾虎狼痢治則」をまとめる。(人気テレビドラマ「Jin 仁」では武田鉄也演じる緒方洪庵は南方仁のペニシリン培養に協力した)文久二年、再三固辞していた幕府からの奥医師の要請を受諾し江戸へ出て伊藤玄朴宅に単身赴任し幕府の西洋医学所頭取となり仮屋敷に移り妻と子供達を呼び将軍家茂より「法眼」に叙せられる。(法眼はもともと僧侶の地位を示す法眼和上位の略だが江戸期には絵師や儒者、医者などに与えられる今で言う人間国宝のような物らしい)文久三年、西洋医学所頭取役宅にて喀血しその血を喉に詰まらせて窒息死する。享年五十四歳・・・緒方洪庵の妻・八重は洪庵が二十九歳のとき十七歳で嫁ぎ六男七女(内の四人は早世)を育てながら苦しい生活の為に名塩の実家に仕送りを頼み生活費を助けた。また、血気盛んな塾生をあるときは叱り、ある時はほんとうの親のように接した姐御肌の豪気さを持った女性といわれている。福沢諭吉は「母のような人」といって慕い、日本赤十字創始者の佐野常民は彼女から受けた恩を忘れられず墓碑銘を自ら書いたという。八重は夫・洪庵の死後二十三年後の明治十九年享年六十四歳で亡くなるがその葬儀には門下生は勿論、政府関係者や在野の著名人、一般人など2000名もの参列者がいたがその葬列の先頭が日本橋に差し掛かった頃にはまだ八重の棺は2500メートル離れた北浜の自宅を出ていなかったといわれている。日本陸軍の創始者である大村益次郎は京都木屋町の料亭で暴漢に襲われ重傷を負い大坂の病院で左大腿部切断の大手術をしたがその足は益次郎の意向により緒方洪庵・八重夫妻の墓の横にこっそりと葬られたという。(大村益次郎はその後、敗血症をおこして死去した。)
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2011年11月25日

西郷隆盛が師と仰いだ大人物 藤田東湖

2005-03-16.jpg藤田東湖は文化三年に水戸学中興の祖で儒学者・藤田幽谷(元は古着屋の息子だがかの有名な水戸藩2代藩主・水戸黄門光圀の一大事業「大日本史」編纂の為に作られた彰考館に勤務)の次男・藤田彪(たけき)として生まれる。(一説によると遠祖は平安時代の学者であり歌人の小野皇{たかむら}「昼は官僚として朝廷に仕え夜は井戸を通って地獄へ行って閻魔大王の補佐として亡者の裁判を助けたといわれる人物」)藤田彪(たけき)は通称・虎之介といい号の「東湖」は生家の東に「千波湖」というみずうみがありこれを号にしたといわれている。東湖は二十一歳の時に父が亡くなりその家督を継いで父の私塾「青藍舎」を引き継ぎ藩内では進物番二百石となった後に父の意思を受け継いで彰考館に勤務して大日本史編纂に尽力し彰考館総裁代理として藩内の地位を築いていく。文政十二年、子供がいなかった第八代水戸藩主・徳川斉脩が亡くなり次期藩主に藩内で大きな力を握っていた附家老・中山信守を中心とした門閥上級藩士らが推す将軍・家斉の第二十子・徳川斉彊を養子に迎えようとしていた(水戸藩から独立して大名になりたかった附家老の中山信守は本家将軍のゴマすりの為に画策したと思われる。)この計画に対抗したのが第八代藩主・徳川斉脩の異母弟・斉昭を推す水戸藩下級藩士たちの中心人物となった藤田虎之助(東湖)は第九代藩主となった斉昭の信頼を得て郡奉行や御用調役を経てお側用人となり「経世済民」(世を治めて民を救う)を掲げ藩政改革に尽力する。(同じく側用人となった戸田忠太夫蓬軒とともに水戸の両田と称された。)しかし弘化元年に藩主・斉昭は鉄砲斉射事件や仏教徒弾圧問題で幕府より家督を嫡子・慶篤に譲り蟄居謹慎の処分を受けると藤田虎之助(東湖)も失脚して禄を剥奪され蟄居幽閉処分を受ける。藤田虎之助はこの次期に「回天詩史」や「正気歌」を著しその尊王論は全国の尊皇攘夷の志士達の信望を集めたといわれる。嘉永三年にようやく水戸に帰国することが出来嘉永五年に罪を許された。翌年、ペリーが浦賀に来航するや諸問題に対応する為に徳川斉昭を幕政参与に復帰指せ藤田虎之助もまた幕府の海防御用掛として斉昭を補佐し御側用人に復帰する。(この次期に虎之助は藤田東湖と改め禄高も二百石から六百石になった。)藤田東湖の名声は各国に伝わり当時薩摩より上京したばかりの若き西郷隆盛も同藩士・樺山三円の紹介で小石川の水戸藩邸の藤田東湖に面会しその学識、人柄、胆力に感銘を受け東湖と越前福井藩士・橋本左内を心の師と仰いだといわれる。安政二年に学校奉行に任じられるがその年の十月に起こった江戸湾北部を震源とする大地震に見舞われ小石川藩邸が倒壊、一旦は家族とも非難したが母親が火鉢の始末を心配して藩邸に戻った為に東湖は母の後を追って藩邸に入るや鴨居が落下し母を庇って柱を肩で受け止め母を脱出させた後に力尽きて圧死したという。享年五十歳・・・この安政の大地震で盟友の戸田忠太夫も亡くなり押さえの効かなくなった水戸藩はまたも保守派と改革派の対立が激化し桜田門外の変や藤田東湖の息子・藤田小四郎が起こした天狗党の乱など幕末の動乱が始まっていく。
posted by こん at 16:52| Comment(1) | TrackBack(0) | 御三家水戸藩 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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