2011年09月14日
名門のイケメン武士 池田長発
池田長発(ながおき)は天保八年、幕府直参旗本七千石・池田長休の四男として生まれ幼少時から神童と呼ばれ幕府の学問所・昌平黌に入学すると秀才といわれ和漢洋のすべてに精通し槍術、馬術、鉄砲術などにも優秀な成績を残した。十五歳で同族で名門の備中井原千二百石領主・池田長溥の養子となり十九歳で将軍から吹上御庭で御目見えを許される。長発は禄高が低かった為に小普請組入り小十人組頭から二十五歳で目付、翌年には火付盗賊改め、京都町奉行と出世を重ね、家柄と勤勉、忠誠心の篤さが認められ外国奉行に抜擢され筑後守に叙された。丁度この次期、攘夷論が強まり孝明天皇が攘夷勅命を発し長州藩の下関戦争や薩摩藩の薩英戦争など各地で諸外国との軋轢が高まっていた。長発が外国奉行に就任した直後に横浜近郊の井土ヶ谷村でフランス陸軍の士官三名を攘夷派(長州藩浪人といわれている)の浪士三人に襲撃されてアンリ・カミュ少尉が惨殺される事件が起きた(結局犯人は見つからず迷宮入りとなった)フランス公使・ベルクールの勧めもあり幕府は事件の解決と謝罪の為にフランスへ外国奉行の竹本甲斐守を特使を派遣しようと考えたが病気を理由に体よく断られてしまう。幕府はフランス側の非難と国内攘夷派の圧力の両方に押されて横浜再鎖港(既に諸外国の圧力により開港していたが朝廷や攘夷派の顔を立てるため)の交渉に当たらせるために池田筑後守長発を弱冠二十七歳の若さで大抜擢され欧米諸国へ派遣することを決定する。(幕府は何人もの正使候補に断られた為に忠誠心が篤く外国事情にあまり詳しくない池田筑後守に白羽の矢を立てたといわれている)池田長発は文久三年に三十四名の遣欧使節団を率いてフランス軍艦ル・モンジュ号で日本を出航して上海、インドを経由してスエズから陸路でエジプトのカイロにむかった途中でギザの三大ピラミッドやスフィンクスを見学、記念撮影をして翌年にフランスのマルセイユに入港後パリに到着して皇帝ナポレオン3世に謁見してフランス政府に事件の謝罪と遺族への扶助金(慰謝料)を支払った。長発はフランス外相と鎖港交渉に入るが猛烈な反論にたじたじになった。また西洋文明の強大さ思い知らせれた長発は開国論に考えが傾き交渉を途中で打ち切っただけでなく長州藩によるフランス船砲撃の賠償金問題や馬関海峡(下関)の自由航行の保障などの「パリ条約」を勝手に締結し2〜3年の西欧歴訪予定を取りやめわずか8ヶ月で帰国してしまう。(生来、生真面目で勉強熱心、幕府に対する忠誠心の熱い長発は進んだ西洋文明を目の当たりにして攘夷だ鎖国だといっている日本のことが心配でいてもたってもいられなかった)帰国後直ぐに開国の建白書を幕府に提出し熱心に開国開港を唱えたが幕府は「パリ条約」を破棄して長発の禄高半減と蟄居謹慎を命じた。(攘夷や鎖国の愚かさ開国の必要性は勝海舟ら開明派の幕臣は既に承知していたが早急に進める困難さもまた理解していたが池田長発はストレート過ぎた為に気が違えたかのような扱いをされた)その後池田長発は実兄・池田長顕の五男・長春を養子に迎えて家督を譲り隠居を願い出た。慶応三年に罪を許されて軍艦奉行並に再登用されるが数ヶ月後に病気を理由に辞職して以後政治には関わらず明治維新後は岡山に引き揚げた。領地の井原で学問所を作って青少年の育成を夢見ていたが岡山藩主の引止めにより井原には戻らず同地で病に倒れ四十二歳の短い生涯を閉じた。写真で見る限り池田長発は名門のお坊ちゃまでイケイケのやんちゃなイケメン青年だがパリから帰国時に物理学、生物学、工業、繊維、農業、醸造など多数の書物や資料を持ち帰り日本に多くの西洋文明を伝えようという真面目で努力家の一面が垣間見えるが幕末の乱世ではこの純粋な男には荷が重かったような気がする。