2010年12月12日
秋山真之の先輩で親友 広瀬武夫少佐(死後中佐)
広瀬武雄は慶応意四年に岡藩士・広瀬友之允重武(幕末の討幕運動で活躍して維新後は裁判官となった)の次男として豊後国直入郡竹田茶屋ノ辻(現・大分県竹田市茶屋の辻)に生まれる。幼い頃に母親を亡くし祖母に育てられたが西南戦争で家が焼失してしまい一家で父の在任先である岐阜高山で暮らし飛騨高山煥章小学校を卒業後は代用教員をしていたが退職して岐阜華陽中学校へ臨時入学した。その後上京し攻玉社(近藤真琴により創設された学校で海軍兵学校入学の為の予備校的存在)に通いながら下谷の講道館に入門して柔道を習い始めた。明治十八年、十八歳で海軍兵学校に15期生として入学(秋山真之は17期生)を果たす(六月の入試に落ち九月の追加募集で合格した。)海軍兵学校では柔道に没頭して校庭や講道館で練習に励んでいたが在学中の大運動会のマラソンで左足が骨膜炎になり足を引きずりながらも完走し切断寸前まで悪化するが療養の結果完治したという。(しかし、その後も時折左足に痛みに悩まされた)明治二十二年に海軍兵学校を卒業するが在学中に大病を患って勉強に集中できず80名中武夫は64番という低い成績だったという。海軍少尉候補生となった武夫は実地訓練の為に軍艦「比叡」に乗ってハワイへ遠洋航海に出ることが決まった。(武夫ら少尉候補生数名で静岡の清水の次郎長を訪問して人の上に立つ者の心得を聞いたといわれている)明治二十四年、少尉になった武夫は「海門」の分隊士となった後「比叡」の分隊士となり豪州遠洋航海に出て翌年に筑波分隊士となる。海軍水雷術練習所分隊士となるも(この次期、将来日本はロシアと戦争になることを予測してロシア語を勉強し始める)翌年に日清戦争が勃発して従軍し「門司」に乗船するが後方支援(輸送業務)のみで戦闘には参加できず終戦を迎える。(終戦前に大尉に昇進)、軍令部に出仕した。その後、八代六郎大佐(後に大将)の紹介により秋山真之と知り合う。(八代六郎は海軍兵学校時代の二人の恩師で両人とも八代に大そう気に入られていた)真之と武夫は四谷の一戸建てを借りてしばらく同居していた。明治三十年、軍令部諜報化課部員となった後日清戦争で中断していた海外留学制度が再開され五人の大尉が留学生として欧米に派遣されることになった。この時に選ばれたのがイギリスに武夫の同期で親友の財部彪大尉(海軍兵学校15期生を首席で卒業し海軍の宝といわれた人物)フランスに村上格一大尉(海軍兵学校11期次席で卒業)、ドイツに林三子雄大尉(海軍兵学校12期三位で卒業)、アメリカに秋山真之大尉(海軍兵学校17期を首席で卒業)、ロシアに広瀬武夫大尉(海軍兵学校15期を64位で卒業)がそれぞれ選ばれた。武夫以外は成績優秀の俊才ぞろいであったが広瀬武夫だけは下位の成績で選考を担当した山本権兵衛少将は躊躇したがロシア語やロシアの情勢を早くから独学で勉強していることを聞き山本は広瀬を承認したという。(広瀬武夫は大津事件の後、ロシアが将来日本の脅威になる予感してロシアの言葉や軍備の知識を学びだした)武夫はロシアに留学しロシア各地の海軍工廠や造船所、軍港などを視察したりロシア貴族の社交界に出入りをして機雷施設の専門家で兵学校で教鞭をとっていた海軍省海事技術委員会のコワリスキー大佐に接近して家族ぐるみの交友をした。(小説ではロシア海軍省水路部長子爵コワレフスキー少将になっている)コワリスキー家に出入りしている内に大佐の長女・アリアズナと恋仲となるが武夫は「軍人には妻子は不要」との持論で妹のようにアリアズナと接していたが彼女の積極的なアプローチに武夫も意識するようになったという。二年後の明治三十二年に駐在武官となりドイツ、フランス、イギリスの海軍施設をを視察しその戦力の分析を行いその年に少佐に昇進する。日本とロシアが緊張状態になった明治三十五年、ついに広瀬武夫に帰国命令が出る。懇意にしてもらっていたパブロフ博士の部屋で送別の宴が開かれ時にボリス・ヴィルキトゥキーという海軍兵学校を卒業したばかりの候補生が是非にと宴に加わった。彼は文武に秀でた広瀬を「タケニイサン」と日本語で呼び慕っていたが帰国すると聞いて「タケニイサン、艦に乗るときに使ってください。」と柄のついた銅製のグラスを贈った。武夫は感謝の言葉を伝えながら「お互い愛する祖国の為に全力で戦おう」と誓い合ったが2年後にそれが現実となる。いよいよ出発に日、武夫とアリアズナは僅かの時間を二人っきりで逢い彼女がかねて用意していた銀製の懐中時計を武夫の手に握らせたという。ふたを開けると(A)の文字が彫られアリアズナのAとAMOUR(愛)のAの両方の意味を知らせあなたのお傍に置いてくださいといい時計の鎖にアリアズナの写真入のロケットも付いていたという。武夫はアリアズナの純粋な愛に思わず抱きしめたがごれが最期の別れとなった。モスクワを発った武夫は鉄道でイルツークまで行きその輸送能力を調べ雪中のシベリアをそりで横断して内情を探った。ウラジオストックより旅順まで東清鉄道で移動した後、ロシアの極東総督アレクセーエフ大将を表敬訪問し日本へ帰国する。その後、軍艦「朝日」の水雷長兼分隊長となり横須賀鎮守府軍法会議判士長を拝命したが翌年に常備艦隊に編入されたのを機に判士長を免職、佐世保のカッター競漕会で武夫の乗り込む「朝日」が優勝する。明治三十七年、ついに連合艦隊が佐世保より出撃仁川沖にて交戦しロシアに宣戦布告して日露戦争が始まる。一方、ロシアの親友・ボリスは海軍少尉に任官されロシア最新艦「ツェザレーヴィチ」に乗り込み旅順港に到着した旨の手紙を「タケニイサン」に送った。旅順沖合いで日本連合艦隊が水雷艇10隻を港内に侵入させ「ツェザレーヴィチ」をはじめ戦艦2隻と巡洋艦2隻に多大な損害を与えたが要塞に守られた旅順軍港に逃げ込みじっと身を潜め出てこなくなった。これでは日本海軍は遠巻きで港を監視するしか方法がなく手詰まりとなった為に旅順港閉塞作戦を敢行することになり5隻の老朽船と77名の志願兵(血判状を差し出し志願した兵の中に後に武夫が命を落とす一因となった杉野孫七上等兵曹がいた)で実行しようとしたがロシアの沿岸砲台が作戦を察知して集中砲火を浴びせた為に失敗する。(武夫は「報国丸」に乗船して指揮を取った)失敗から一ヵ月後に第二次閉塞作戦を4隻の閉塞用船で敢行することになり武夫は福井丸で指揮を取る。出撃前の「福井丸」に親友・秋山真之が会いにくるがこれが最後の別れとなった。(秋山は死を覚悟した親友に「敵の砲撃が烈しくなったらかまわずに引き返せ、決して命を無駄にするな」と説得しにやって来たという。旅順港口に突入した4隻の閉塞船にロシア沿岸砲台や駆逐艦から一斉砲火を浴び先ず航行不能となった千代丸が自沈、武夫が乗船した「福井丸」はそのやや前方で自沈を図った。杉野孫七上等兵曹が自爆用爆薬に点火するために船内に入った時にロシア駆逐艦の魚雷が命中し「福井丸」は次第に沈みかける。全員をボートで退艦させ点呼をとった所杉野上等兵曹が居ないことに気づいた武夫は「福井丸」に戻り船内を三度くまなく探したが杉野上等兵曹の姿が見つからず諦めてボートに移った。その時、ロシアの哨戒艇の砲撃を頭部に直撃し広瀬武夫少佐は銅銭大の肉片を残して吹き飛ばされ戦死した。第三船の弥彦丸も自沈し第四船の米山丸は指揮官が砲撃で負傷し二等兵曹が指揮を取って閉塞目的地を目指すがロシア駆逐艦の魚雷が命中して沈没し第二次閉塞作戦は失敗に終わる。広瀬武夫少佐の遺体はロシア艦船が引き揚げた。遺体は頭以外は損傷がなくロシア駐在武官時代の恋人・アズアリナの兄が遺体確認し栄誉礼をもって厳粛な葬儀を執り行った。広瀬武夫の死を知ったアズアリナは生涯独身を貫いたと言われている。明治政府は翌日に広瀬武夫を中佐に昇進、杉野孫七上等兵曹は兵曹長に昇進して広瀬は日本初の「軍神」として祭り上げられた。広瀬武夫享年三十六歳・・・第二次旅順港閉塞作戦は失敗に終わりその一ヶ月後の第三次閉塞作戦では閉塞船12隻という大規模作戦となったが天候不順とロシア軍の反撃でまたもや失敗した。バルチック艦隊が向かっていることを知った日本海軍は陸軍に陸上からの旅順港要塞の攻撃を依頼し乃木希典大将、伊地知幸介参謀長率いる第三軍が多くの犠牲を払い旅順港に停泊中のロシア太平洋艦隊(旅順艦隊)が見渡せる203高地を児玉源太郎の助力もあって奪還に成功し旅順港の太平洋艦隊の殲滅に成功する。これのよって日本海軍はロシアバルチック艦隊との海戦を有利にして連合艦隊勝利に仁導いた。
2010年12月10日
兄の為に半生を生きた妹・正岡律
正岡律は明治三年、松山藩士正岡恒尚と八重の長女で正岡子規の妹として愛媛県松山で生まれる。幼少の頃から大変勝気で体の弱い子規がいじめられると律は両手に石を握り締めていじめっ子を追いかけまわしたという。小学校を卒業し十五歳で遠縁にあたる陸軍軍人の恒吉忠道と結婚するが僅か九ヶ月で離縁される。その二年後の明治二十二年に松山中学教師・中掘貞五郎(地理や物理などを教えていた。夏目漱石の坊ちゃんの「うらなり」のモデルになった一人とも言われている。背丈が低く歩く時にコットリコットリと音を立てて歩くので生徒からは「こっとりさん」とあだ名されていたという。)と再婚するも(子規が喀血で倒れ夏季休暇中を利用して松山に戻って療養していた)新婚ながら兄の看病でほとんど実家に帰っていたのが一因で僅か十ヵ月で離婚する。兄・子規が東京帝国大学を中退して新聞社に就職したのを機に律は母・八重と共に上京して三人で暮らし始める。しかし、子規が従軍記者として大陸へ渡航中に喀血し脊髄カリエスと診断され歩くこともままならない状態になると律は昼夜を惜しまず献身的に兄の看病をする。脊髄カリエスにより背中から流れ出る膿や便も嫌がりもせずとってる姿は主治医・宮元仲は「女の中の役、細君の役、看護婦の役と、朝から晩まで一刻の休みもない」とその献身振りを賞賛したという。また、子規の容態が悪化するにつれやり場のない怒りを傍で看護している妹にぶつけるしかなかった。律はそんな兄を気づかって少しでも心が癒されるようにと思ってか庭を作り変え子規の目を楽しませ寝返りが打てなくなるほど悪化すると鳥籠を設置して耳を楽しませたりヘチマ棚を作って子規を癒した。子規は脊髄カリエスの痛みや動けない辛さを傍にいる律にぶつけ彼の著書「仰臥漫禄」で木石のような女だの強情で冷淡な女だの書き連ねて不満をぶつけた。しかし「一日にても彼女なくば一家の車は其運転を止めると同時に余は殆ど生きて居られざるなり」と律を頼りにし「 雇ひ得たるとも律に勝る所の看護婦 即ち律が為すだけのことを為し得る看護婦あるべきに非ず」と律に感謝している。明治三十五年、正岡子規はついに苦しく辛い闘病生活に終わりを告げて三十五歳の生涯を閉じる。律と母・八重はその後も子規庵に住み続け律が小学校しか卒業していなかった為、三十二歳の時に共立女子職業学校(鳩山由紀夫元首相の曽祖父ら教育者数名で設立し現在は共立女子学園)に入学して裁縫、家事、修身、国語、算術、理科などを勉強、補習科に進んだ後卒業して母校の事務員を経て家政とくに和裁の専門教師として大正十年まで勤めるが母・八重の看病の為に退職する。その間の大正三年、叔父・加藤拓川の三男・忠三郎を正岡家の養子として迎え入れ家名を継がした。教師時代の律は厳格であるが優しい先生として多くの生徒に慕われ退職後も教え子達との交流は続いたという。その後子規庵にて裁縫教室を開いて生計を立てながら子規の遺品遺墨と子規庵の保存に努め昭和三年、財団法人子規庵保存会初代理事長に就任した。律の最期の手記「律刀自病床覚」によると律は最期に「もう連れて帰ってください」と残して昭和十六年に七十二歳の生涯を閉じ生前の希望通りに正岡子規の傍らに律は葬られた。・・・余談になるが子規がまだ松山中学在学の頃、子規の周りに多くの仲間が集まって話をしていても律はその中に入ってこなかったが秋山淳五郎真之が来た時だけは喜んでその話の輪に入ってきたので子規は冷やかして「律は淳さんと結婚すればええ」とからかったといい、また子規没後に訪ねてきた真之の姪(秋山好古の次女・土井建子さん)は「お律さんの傍にいてひょっとしたらお律さんは真之叔父さんが好きなのかしらと思った」と述べていたらしい。幼い頃から兄の親友だった男前の秋山真之にほのかな恋心を抱いたとしても不思議ではない。
2010年12月08日
白虎隊士中二番隊嚮導(副隊長)・篠田義三郎
篠田儀三郎は嘉永五年、会津藩供番家禄二百石の篠田兵庫の次男として郭内米代二之丁に生まれる。(母・しん子は織部玄孝の娘で後の家老・田中土佐の養女として篠田家に嫁いできた。)儀三郎は正直者で約束をたがえたことは一度もないといわれる。彼が六、七歳の頃、友達と日を決めて蛍狩に行こうと約束をした。しかし、その日は大風雨で誰の目にも蛍狩など出来る常態ではなかった。だが儀三郎は蛍籠を提げてやって来た。友達は「こんな天気に蛍など飛んでる筈がなかろう。なぜ態々来たのだ」と尋ねると儀三郎は「そんなことは解っておるが君と一旦約束を交わしたからそれを守っただけだ」といって約を解いて帰っていった。また、ある時友人宅で会合を開く約束をするが当日に雹が降り道は凍りついて寒さ烈しく誰も来ないであろうと友人は思っていた。ところが儀三郎が足袋を手に持ち裸足に草履履きで現れたので友人は驚き謝ったという。儀三郎の正直は皆知らぬ物はいないといわれた。十一歳で藩校・日新館に入学し尚書塾一番組に編入されしばしば賞賜を受けたという。慶応四年、戊辰戦争が勃発するや会津藩は軍制を整え年齢別に玄武(五十歳以上)・青龍(三十六歳から四十九歳)・朱雀(十八歳から三十五歳)・白虎(十七歳から十六歳)幼少組(十四、五歳)と分類され白虎隊でも身分によって士中、寄合、足軽と別れていた。儀三郎は士中二番隊四十二名に編入され責任感が強く成績優秀だった為に嚮導(指図役副隊長)に任命された。白虎隊は本来予備兵力として結成され毎日訓練明け暮れていたが自分たちも会津の為に戦いたいと友人の安達藤三郎と共に出陣嘆願書を軍事奉行へ提出した。嘆願が聞き入れられ藩主・容保の護衛というかたちで滝沢村本陣に出陣することになった。しかし新政府軍の進軍路になる十六橋を破壊して防ぐ作戦も薩軍が既に通過した後だったため失敗に終わった。藩主・容保と別れた白虎隊は三十七名で隊長・日向内記、儀三郎ら十六名と小隊長・山内弘人率いる二十名と原田勝吉が臨時で率いた七名が戸之口原で敵を迎え撃つ作戦を取った。しかし後方支援ということだったので重たい装備を置いて軽装での塹壕堀で空腹状態だったので隊長の日向内記が単身で食料調達に向かったが夜から烈しく降り続いた雨で帰還出来なくなり行方が解らなくなった。篠田儀三郎は隊長代理として指揮を取るが血気盛んな若者である儀三郎は皆の意見に推されて前線に出て戦う決意をする。儀三郎たちは善戦したが武器の違い(白虎隊では時代遅れの先込めゲーベル銃しか持っておらず新政府軍のミニエー銃とは比べ物にならないくらい性能が劣っていた)や兵隊の数、戦場での経験不足で退却を余儀なくされた。儀三郎ら十六名は山内隊や原田隊とはぐれ鶴ヶ城に戻って戦おうと話し合った。城に帰る途中滝沢の白糸神社付近で敵と遭遇して銃撃戦となり永瀬雄次が負傷する。彼を背負って弁天洞の洞門を抜けて弁天祠から飯盛山の高台へ出るとお城が燃えていた。(実際は城の周りの武家屋敷が燃えその煙で城が燃えているように見えた)儀三郎たち十六名はこのまま城を目指すかここで自刃するかを話し合った結果、極度の疲労や空腹と銃撃戦で負傷した者もいたので敵に捕らわれて恥辱を受けるよりここで全員自刃しようと決まった。後に蘇生した飯沼貞吉は出陣の際に母より贈られた和歌「梓弓むかふ矢先はしげくともひきなかえしそもののふの道」を読み上げ、篠田儀三郎は天文祥の詩を高らかに吟じ傍らにいた石田和助も途中から加わったという。石田和助は吟じ終わると「傷が痛んで苦しいのでお先に御免」といって刀を腹に突き立てそれを見た儀三郎は喉を一気に貫き絶命した。遅れて飯盛山に辿り着いた石山虎之助は仲間の死体を見て後を追ったという。また伊藤俊彦と津田捨蔵と池上新太郎は不動滝にて戦死体として発見された。白虎隊士中二番隊三十七名の内で自刃したのは十九名といわれ皆十六、七歳のまだ若い子供達であった。
2010年12月06日
坂の上の雲 俳人・正岡子規
正岡子規は本名・常規(つねのり)といい幼名を処之助後に升(のぼる)と改名し通称「のぼさん」と呼ばれた。慶応三年、伊予国温泉郡藤原新町(現・松山市花園町)に松山藩御馬廻加番・正岡隼太常尚の長男として生まれた。母は松山藩の儒学者・大原観山の長女で八重といい子規がまだ六歳のころに夫の隼太が亡くなった為、女手1つで子規と律を育て上げた。正岡家の後見となった大原観山の私塾で漢書の素読を習い、翌年に広末小学校に入学し後に勝山小学校に転校し愛媛県第一中学(現・松山東高校で江戸時代末期の明教館の後進)に入学し秋山真之と一緒に学んだという。子規は好奇心旺盛の若者となり一時期は自由民権運動にも傾倒し政談に熱中したり、また松山一と云われた歌人の「井出真棹」に弟子入りした秋山真之に誘われて子規も入門して和歌を始めたといわれている。明治十六年、子規は愛媛県第一中学を中退して上京し東大予備門受験の為先ず共立学校に入学して受験英語を学んだ。(秋山真之もまた子規の後を追って愛媛第一中学を辞めて上京)子規と真之は無事に東京大学予備門に入学を果たし本郷に出来た常盤会寄宿舎に住んだ。(常盤会は旧松山藩主・久松家が旧藩子弟の学資援助組織として創設され子規は給費生に選ばれ月に七円の他と教科書代などが支給された。)寄宿生として子規と真之、「清水則遠」の三人は特に気が合う親友としていつもつるんで過ごしたという。しかし、栄養不足からくる病に倒れた清水は家が貧しく親元から届くはずの仕送りが届かず薬が買えずに病状が悪化して明治十九年に脚気衝心で命を落とす。親友に死に一時錯乱状態になった子規だが秋山真之に支えられ励まされてみんなでお金を出し合って清水の葬儀を執り行ったという。この親友の死の2ヵ月後、秋山真之は一大決心をして子規宛てに「送りにし 君がこころを 身につけて 波しずかなる 守りとやせん」と書いた和歌をおくり東京大学予備門を中退して学費のいらない海軍兵学校に入る決意を示した。(この時の真之は清水と同じく経済問題で悩み陸軍大尉だった兄・好古に学費など頼っていた。)子規はこの真之の和歌に対しての返歌「海神も 恐るる君が 船路には 灘の波風 しづかなるらん」とおくり以後別々の道を歩んでゆく親友・真之を励ました。子規は相変わらず予備門同窓の夏目漱石らと青春を謳歌したが明治二十二年、子規は寄宿舎で突然喀血して倒れ医者から結核と診断される。帝国大学哲学科に入学を果たした子規は翌年には国文科に転科し幼い頃から興味のあった和歌や俳句の研究仁没頭するようになる。(このときから血を吐いても啼くホトトギスを自分になぞって正岡子規と名乗るようになった)明治二十三年、子規は帝国大学を中退し叔父の加藤拓川の紹介で日本新聞社に入社、家族を東京に呼び寄せて文藝記者として新しい時代の和歌や俳句の革新運動を始める。明治二十八年、日清戦争が勃発し子規は志願して従軍記者となって遼東半島に渡っが上陸二日目に下関条約が結ばれ帰路につくことになった。しかし、帰りの船中で再び大喀血して重態に陥って神戸病院に入院、須磨保養院で療養した後に松山に帰郷し当時松山中学校に教師として赴任していた親友・夏目漱石の下宿先で療養する。療養を終えた子規は再上京の道すがら奈良の茶店で大好物の柿を食べている時に呼んだ句とも漱石が贈った「鐘つけば 銀杏ちるなり建長寺」という句の返句だという説がある。この旅の途中、子規は激しい腰の痛みで歩行困難となる。当初子規はリューマチと思っていたが翌年に医師から結核菌が体中に広がり脊髄を冒す「脊髄カリエス」と診断される。秋山真之が渡米してまもなく子規は歩行さえ出来なくなるが「歌詠みに与振る書」を発表し俳句革新に情熱を傾けた。そんな子規を真之は心配してアメリカで購入した軽い毛の布団を贈ったが子規はそれを大変気に入り喜んだという。真之が帰国した明治三十三年には子規の病状は更に悪化し臀部や背中に穴が開き膿があふれでて激痛が襲った。それでも子規は寝返りも打てない苦痛を麻痺剤を使いながら「墨汁一滴」や「病床六尺」など発表し病床で高浜虚子や河東碧梧桐、伊藤左千夫らの指導も行った。しかし明治三十五年、ついに力尽き根岸の子規庵で永眠する。享年三十六歳・・・秋山真之は葬儀の日、袴を履いて道端で一礼して足早に立ち去ったという。子規の死から十六年後、真之は盲腸炎が悪化して小田原で死を迎えたときに「これは辞世の句というほどのものでもないのだが・・」と前置きして「不生不滅 明けて鴉の 三羽かな」と口ずさんだという。この三羽の鴉は正岡子規と自分、真之と清水則遠をカラスにたとえた句といわれている。
2010年12月04日
秋山真之の妻 秋山季子
秋山季子(すえこ)は愛知県豊田(三河国挙母藩)出身の宮内省御用掛(書画鑑定士)稲生真履(まふみ)の三女として生まれ華族女子学校に通う才媛であったという。姉の夫(義兄)海軍少佐(後に大佐)青山芳得に連れられて築地の水交社の催しで八代六郎大佐(後に海軍大将で大臣になった)に気に入られ自分の部下の秋山真之との縁談を持ちかける。しかし季子の父・真履は「軍人には娘はやらぬ」と一度は断ったが婿の青山芳得から真之の優秀さや人柄の良さを聞き縁談を承諾し真之三十六歳、季子は二十一歳の結婚となった。明治三十六年、水交社での結婚式で媒酌人には維新の功労者で土佐三伯の一人・佐々木高行侯爵が務めたという。二人の間に五人の子供を儲けたが真之が五十一歳の若さで急逝した為、真之の兄・好古が季子と五人の子供の面倒を見たという。長男・大(ひろし)は仏教美術研究に没頭し「現世信仰の表現としての薬師造像」や「古代発見」の著書を残すが早世、次男・固(かたし)は季子の姉夫婦(青山芳得大佐夫婦)の養子となり、三男の中(ただし)は真之が最期を迎えた別邸を提供してくれた友人の山下亀三郎(山下財閥創始者)の山下汽船取締役となり財閥解体後の山和商船の社長となる。次女の宣子(たかこ)は海軍中佐・大石宗次の妻となりその長女が現・民主党衆議院議員の大石尚子さんです。