2010年11月29日
龍馬暗殺の指揮をした京都見廻組与頭・佐々木只三郎
佐々木唯三郎(只三郎)は天保四年、会津藩与力・佐々木源八の三男として会津若松にて生まれる。長男・勝任は父の実家・手代木家を継いだ会津藩公用人・手代木直右衛門、次男の主馬が佐々木家を相続して只三郎と源四郎は部屋住みとなる。嘉永六年、会津藩は幕府により品川第二砲台の警備を命じられ唯三郎は陣将隊当番として勤務するが安政の大地震で砲台は崩壊して番小屋が延焼したという。唯三郎が二十七歳の頃、親戚の旗本で幕府御書院番与力・佐々木矢太夫の養子となって江戸へ出て講武所の剣術師範に任命される。(唯三郎は幼少の頃から会津藩伝来の「会津五流」の一派である神道精武流を学び「小太刀日本一」といわれる腕前であった。)文久二年に将軍家茂の上京警護の為に幕府は清河八郎の策を受けて浪士組を募集し唯三郎は講武所剣術師範から浪士組取締出役に任じられ京へ下る。しかし、京都に着くと清河は朝廷より攘夷決行の勅をいただき自分に賛同する浪士を引き連れて横浜へ出立し残った浪士組が新撰組(一説によると後ろ盾を失ったこの浪士組を京都守護職の会津藩に仲介したのも佐々木唯三郎といわれている。)へとなっていく。(清河ははじめから将軍警護を口実に幕府を騙していた。)唯三郎は江戸へ戻ると老中・板倉勝静から清河暗殺の命を受け麻布一之橋で速水又四郎(浪士取締出役)ら数人と暗殺を果たす。一旦、唯三郎は講武所師範に戻った後、元治元年に幕府は京都の尊攘派過激浪士取締り強化の為に旗本の次男、三男を集め見廻り組を結成した。佐々木唯三郎は与頭として京都に赴任し二条城の北の松林寺に妻と共に住む。蛤御門の変には見廻組として出動、新撰組と同じく京都の治安維持に務める(しかし、新撰組の活躍と比べ見廻組はエリート意識が強く大きな手柄は残っていない)(佐々木唯三郎は当時家禄は千石を貰い大和守となっていた。)唯三郎ら見廻組は京都奉行所が捕縛に向かった寺田屋において二名の捕吏を射殺した坂本龍馬を執拗に追っていた。慶応三年、唯三郎は見廻組隊士の今井信郎、桂隼之助、渡辺一郎(篤とは別人とも同一とも言われている)高橋安次郎、土肥仲蔵、桜井大三郎らを率いて醤油商・近江屋の二階に潜伏していた坂本龍馬と同席していた中岡慎太郎に「十津川藩士」と偽って面会を求め家屋内戦を想定して小太刀の達人を選抜して踏み込んだといわれている。慶応四年、妻と京で生まれた一子・高を江戸へ帰した後、見廻組隊士2百名を率いて鳥羽街道を北上中に薩摩藩兵に阻まれ鳥羽・伏見の会戦となる。(この時、見廻組は遊撃隊に改名)唯三郎は淀川を挟んで八幡の堤で奮戦中に敵のミニエー銃の弾丸が腰に被弾して動けなくなり大坂から葵の家紋入りの長持に入れて紀州和歌山に運ばれたが紀三井寺の旅館で三十六歳の生涯を閉じた。辞世の句「世はなべて うつろふ霜にときめきぬ こころづくしのしら菊のはな」は鳥羽・伏見の戦いのなか酒屋に飛び込んで酒代がわりに襖にこの句を書いたといわれている。自分の死支度の為に金百両を所持していたが連れていた部下の酒代や博打、女買いに使い果たし紀三井寺山腹の滝の坊に葬られ近年に会津の武家屋敷に移された。
2010年11月21日
坂の上の雲 日本海軍中将・秋山真之@
秋山真之は慶応四年(明治元年)に伊予松山藩の下級武士・秋山平五郎の五男として生まれ幼名は淳五郎という。幼馴染の親友・正岡子規(本名は升・ノボルといい後に常規)が上京に影響を受け明治十六年に愛媛第一中学(現・松山東高校)を五年で中退し上京する。上京後は進学予備校だった共立学校(現・開成高校)で受験英語を勉強し翌年に正岡子規らと共に大学予備門(現・東大教養学部)に入学する。太政大臣になる夢を持って東京帝国大学進学を目指したが秋山家の経済的事情から予備門を退学し海軍兵学校(17期生)に入学をする。入学時は14番目の成績だったが次第に頭角を現して二学年末からは首席となり短剣一腰と優等章を受けた。(親友・正岡子規、夏目漱石、尾崎紅葉らは帝国大学文学部に進んだ)真之は明治二十三年に海軍兵学校を首席で卒業し少尉候補生として「比叡」に乗艦して経験を積み和歌山串本沖のエルトゥールル号遭難事件にも従事した。その翌年に巡洋艦「高千穂」また翌年に「松島」の航海士、同じ年に海軍少尉となり砲術練習艦「龍驤」に乗艦して分隊士、日清戦争では通報艦「筑紫」に乗艦して偵察活動などの後方支援に参加、戦後は海軍水雷学校に入学して水雷術を学ぶ。卒業後、横須賀水雷艇団第二水雷艇隊府付となりその後報知艦「八重山」に乗艦して海軍大尉に昇任して分隊長となった。明治三十年、真之は十三年間中断されていた留学生派遣が再開するとその候補に選ばれる。しかし公費留学は認められず私費留学となりアメリカへ留学するが米海大に入学を拒否された為、ワシントンに滞在していた海軍大学校校長で軍事思想家であるアルフレッド・セイヤー・マハンに師事し、大学校の図書館や海軍文庫での図書を利用しての兵術の理論研究に励む。このときに起こった米西戦争の観戦武官としてアメリカ海軍の作戦及び実戦を真直で監察し報告書「サンチェゴ・デ・クーパーの役」(アメリカ海軍がキューバ港を閉塞する作戦で後の日露戦争の時に旅順港閉塞作戦に影響を与えた)を提出する。翌年にイギリス駐在となりその年に帰国を果たし海軍少佐に昇進。明治三十五年に海軍大学校の教官、翌年には「すゑ」と結婚する。明治三十七年に海軍中佐となり第一艦隊参謀、日露戦争時に連合艦隊司令長官・東郷平八郎の下で作戦参謀に抜擢され第一艦隊旗艦「三笠」に乗船、日露戦争では旅順に停泊する太平洋艦隊に対する閉塞作戦を立案し大成功を収め、バルチック艦隊迎撃作戦では丁字戦法を立案して日本海海戦で大勝利に導いた。連合艦隊解散後は「三笠」の副長、「秋津洲」「音羽」「橋立」「出雲」「伊吹」の各巡洋艦の艦長を歴任して海軍大佐に昇任。大正元年に軍令部に異動して同三年に海軍少将となる。大正五年に第一次世界大戦を視察する為にヨーロッパに渡りイギリス、フランス、イタリア、アメリカを歴訪後に帰国し第二艦隊の水雷指令官となるも体調が優れずに辞職、海軍将官会議議員という名誉職に就く(海軍中将に昇任)が同年に虫垂炎を患い療養したが翌年に腹膜炎を併発して小田原の山下亀三郎の別邸で死去した。享年四十九歳・・・秋山真之は好奇心が旺盛で大学校教官時代に同僚だった佐藤鉄太郎の勧誘で「天晴会」に入会して経典の研究をはじめ晩年には心霊や宗教研究に没頭し日蓮宗に傾倒、当時勢力を伸ばしていた新興宗教の「大本教」に入信して部下と共に綾部詣を行った。しかし、要人宅を訪れた真之の失言により「大本教」に対する信頼を失ったといわれている。(どういう訳か真之は大地震の予言を行って大騒動となったというが出口王仁三郎(聖師)の予言とも浅野和三郎の予言とも言われ真之は巻き込まれたに過ぎないとも云われているが定かではない)その後、仏教の研究に戻り生涯を終えている。東郷平八郎は秋山真之を「智謀湧くが如し」と称えてその優秀さに舌を巻き多くの作戦を彼に一任したがその優秀さゆえに「戦況を幻で見た」とか「戦争で目撃した人の生死や戦争の勝敗について人知を超えた力を感じた」といって宗教研究にのめり込んだといわれている。秋山真之や兄の好古たち優秀な人材が明治政府において軍人としてしか活躍できなかったというと一説には出身藩の松山藩の影響が大きかった。伊予松山藩は伊勢国桑名藩から転封として松平定行が十五万石で入封したが親藩の為に幕末の長州征伐において先鋒を務めて占領した周防大島において略奪、暴行、虐殺を行ったという。このことが維新後に長州閥が元松山藩士仁冷遇した原因といわれている。(維新後は松平姓から久松姓に変わった)太政大臣を目指して上京した真之にとっては不運であった。
2010年11月16日
土佐の高知のはりまや橋で♪♪ 修行僧純信とお馬
晩年のお馬さん
(高知グランドホテル蔵)
よさこい節でお馴染みの♪土佐の高知のはりまや橋で坊さんかんざし買うを見た♪で有名な坊さんとは様々な説がありますが五台山竹林寺の修行僧で慶全という坊さんが寺のふもとで洗濯業をしていた母親の手伝いで寺に洗濯物を届けにきていたお馬という髪の毛の赤みかかった頗る美人の女の子(当時十七歳)に一目惚れをしたという。(お馬の父親は鋳掛屋をしていた)若い二人は恋仲となったが修行僧を厳しく指導する立場にいた竹林寺南の坊の純信という僧に諌められる。お馬は次第に若い慶全よりも当時三十七歳の純信に惹かれていった。純信も二十歳も年下の美しい女性に溺れて三角関係になってしまった。慶全はお馬の心が純信に向いていると焦り彼女の心を繋ぎとめる為にかんざしを贈る。安政元年の頃で安政の大地震で土佐でも大きな被害が出て復旧作業でみんなが忙しく動き回っていた次期にお坊さんがはりまや橋南詰にあった「橘屋」という小間物屋でかんざしを買ったという噂が高知中に広まったという。純信はこれ幸いと慶全を竹林寺から追放し三角関係にけりをつけた。しかしこれを恨んだ全慶は「じつわかんざしを買ったのは純信だ」と噂をばら撒いた。このことが土佐藩の耳に入り純信は破戒僧として取調を受けるが実際に純信はお馬と関係を持っていたのは周知の事実なので言い訳も出来ず謹慎処分となりお馬も寺への出入りを禁じられた。安政二年、どうしてもお馬を忘れられない純信は深夜にお馬を連れて駆け落ちをする。(京都を目指したとも高松の知人を頼ったとも云われている定かではない)僧侶に変装したお馬と共に北山の関所を抜けて讃岐の国琴平まで行き高知屋という旅籠に宿泊中土佐藩が差し向けた追手に捕まり連れ戻される。純信は拷問を受けた後、高知城下三箇所で面縛(さらし者にされること)3日間と藩外追放となりお馬は面縛3日間と安芸川以東に追放となった。(つながれさらし者になった美しいお馬さんを一目見ようと黒山の人盛りになった伝えられている。)純信は伊予国の川之江の塩屋の三軒家・川村亀吉(土佐出身の人)の世話で井川家の寺子屋で教鞭をとった。一方お馬は安田村神峯登り口の旅籠「坂本屋」で奉公することになったが純信がお馬の肌恋しさに行商に変装して国境を越えて会いに来た。お馬を伊予に連れ帰ろうとしたがお馬は拒絶したとも役人に見つかったとも云われ純信は再度国外追放となりお馬もまた高岡郡須崎の庄屋へお預けとなる。その後お馬は庄屋の勧めで土地の大工・寺崎米之助と結婚し二男二女を設けて幸せに暮らしたという。一方、純信のほうはまだお馬に未練があったらしく川村亀吉宅を訪れた河田小龍にお馬への手紙を託した。だが小龍はお馬の幸せそうな家庭を見て手紙を渡さず自分の家の障子に張ったという。純信は亀吉亡き後消息が分からなくなったが後に郷土家の調査で中田与吉と名を変えて結婚、一男一女を設けて愛媛県美川村で慶翁徳念和尚として明治二十一年に生涯を終えたという享年六十九歳、お馬の方は長男徳太郎が家業の大工を継いで上京し陸軍御用大工となったのを機に一家で東京へ移住し明治三十六年に六十六歳の幸せな生涯を閉じたという。いつの時代も男のほうがいつまでも別れた彼女に未練を残し女のほうは別れた男を綺麗さっぱり忘れて次の幸せを探す生き物である。・・・
2010年11月11日
幕府を庇い続けた 土佐藩主の山内豊信こと容堂
山内容堂は本名は山内豊信といい文政十年に土佐藩主の山内家の一門連枝(土佐山内家には東、西、南の各屋敷と追手屋敷の分家があった)である南屋敷山内豊著(とよあきら)とその妾の子として生まれる。南家山内家は一門ではあるが僅か千五百石の分家で本来ならば土佐藩主になれる立場ではなかった。しかし、嘉永元年に第十三代藩主・山内豊煕が江戸在府中に急死してしまい急遽末期養子という形で次弟の山内豊惇が十四代藩主に就任が決まったがまだ将軍お目見えが済まぬ僅か十二日後に山内豊惇も急死してしまった。山内豊惇の末弟に豊範(後に十六代藩主になる。)がいたが三歳だったので分家の豊信(当時二十二歳)に白羽の矢が立った。しかし14代山内豊惇の死があまりにも早すぎた為に末期養子が認められずに本来ならば土佐藩は良くて「国替え」悪くすれば「御家断絶・領地没収」となるところを第十三代藩主・山内豊熈の妻・智鏡院の実兄である薩摩藩若殿(当時はまだ藩主になっていなかった)島津斉彬や斉彬の大叔父の福岡藩主・黒田長溥、斉彬と深い交流のあった(親友)宇和島藩主・伊達宗城ら外様大名の働きがけがあり幕閣の中心人物だった阿部正弘(島津斉彬と親友)が異例である山内豊信の土佐藩襲封を許可した。(山内豊惇は死んではおらず病気の為に隠居を願い出て豊信を養子として認める)この時の負い目が後の討幕運動に消極的行動をとったといわれる。山内豊信は藩主となったが十二代藩主だった豊資が隠居しているとはいえ土佐藩に絶大な影響力を持っていた。しかし、飾りだけの藩主になることを嫌った豊信は門閥や旧重臣を退けて半ば強引に革新派「おこぜ組」の吉田東洋を参政職という新たな役職を設け旧門閥に繋がる家老を排除した。また側用人に謹厳実直な小南五郎右衛門を抜擢し西洋軍備導入や海防、文武官設立など様々な藩政改革を断行した。また山内豊信は越前福井藩主・松平春嶽や宇和島藩主・伊達宗城、薩摩藩主・島津斉彬らと交流を持ち「幕末の四賢侯」と称され老中首座・阿部正弘の幕政改革に関わった。しかし、次期将軍継承問題で四賢侯、水戸藩主・徳川斉昭らと一橋家の慶喜を推していた阿部正弘が死去した後に大老職に就いた井伊直弼(次期将軍に紀州藩主・徳川慶福を推していた)と対立し大老の地位を利用して一橋派の弾圧(安政の大獄)を開始し斉昭、宗城、春嶽らと共に山内豊信に謹慎命令が下った。豊信はこれに憤慨して隠居願いを出し土佐藩主を前藩主の弟・豊範に譲り名を山内容堂(水戸の藤田東湖の薦め)と改名した。容堂は他の賢侯(島津斉彬は志し半ばで死去)と共に公武合体を勧めていたが井伊直弼が桜田門外で水戸藩浪士達に暗殺されると勤王派が力を持つようになった。謹慎中に土佐藩では尊王攘夷運動が加熱して白札組(身分は郷士だが上士に準ずる扱い)の武市半平太率いる土佐勤王党が台頭し容堂の腹心である吉田東洋と対立しこれを暗殺して土佐藩門閥派と結んで藩政を掌握し長州藩と連携して勤王攘夷的立場を全国に知らしめた。しかし、八月十八日の政変で佐幕派が復権し容堂も謹慎が解かれて土佐藩に帰ると藩政を掌握し左幕的立場を持って公武合体を推進する。また吉田東洋暗殺犯の追及を始め、土佐勤王党の大弾圧を開始して武市半平太を切腹させ捕縛を逃れた有能な志士達は脱藩する。一方、京都では八月十八日の政変で尊攘派を一掃したが(七卿落ち)政務を任せる有能な人材がない朝廷は雄藩大名を招集して合議制参与会議を開いて意見を聞くことにした。容堂は元治元年に朝廷から参与に任じられ上京したが参与会議で徳川慶喜と薩摩藩島津久光が激しく対立し嫌気がさした山内容堂は病気を理由に欠席を続け崩壊してしまう。その後の長州征伐にも土佐藩は参加せず国許で吉田東洋の甥の後藤象二郎や福岡孝悌、板垣退助ら若手官僚を登用して軍事整備や殖産興業に務め国力増加を図った。また、坂本龍馬や中岡慎太郎ら土佐脱藩浪士の仲介によって薩長同盟が結ばれ長州藩に大量の最新銃器が入ったことや将軍・家茂の急死もあって第二次長州征伐は幕府の敗北に終わった。幕府は権威を失墜し時勢は「倒幕」へと傾きつつあった。慶応三年、薩摩藩の主導で四侯会議が開かれたが薩摩藩と将軍慶喜の対立で決裂、容堂も病欠を続け、以前の参与会議のように崩壊してしまう。雄藩合議制では話が進まぬと見た薩摩藩の西郷隆盛や大久保利通は武力倒幕へと方向を変えていく。あくまで徳川幕府を守ろうとしていた山内容堂であったが土佐藩若手参政の後藤象二郎や板垣退助たちは土佐勤王党壊滅によって時勢に乗り遅れたことを痛感し坂本龍馬や中岡慎太郎の仲介で薩土盟約を締結して土佐藩自体は倒幕へ傾いていった。(山内容堂だけは藩主就任時の恩義や関が原以来の山内家の成り立ちを考えて徳川家を擁護したが時勢の流れに抗えなかった。)一方、坂本龍馬は自分たちの尽力で犬猿の仲だった薩摩と長州を仲介したが両藩が武力倒幕へ進むにつれて日本が内戦状態になることを懸念して土佐藩を利用することを考え、土佐藩は薩長の流れに追いつく方法を模索していた為に坂本と土佐藩参与の後藤象二郎の利害が一致し長崎で龍馬と会談の席をもつ。後藤は後に龍馬の「船中八策」を取り入れて山内容堂に徳川慶喜に大政奉還を進言するように説得する。薩長による武力倒幕を懸念していた容堂は大恩ある徳川を守りたい一方で朝敵となることを恐れてこの案を受け入れ老中・板倉勝静を通して慶喜に建白した。徳川慶喜はまだ幼い朝廷では政権担当能力がなくいずれは徳川家が再度政治を任せられるであろうと考えて雄藩諸侯会議を設けてその議長に慶喜が立つという条件付で幕府は承諾、大政奉還となった。日本の内戦の回避と徳川家の温存が叶い土佐藩の功績が大と成ったので容堂は上機嫌だったという。しかし、薩摩藩は藩兵3千人を率いて上京、摂政・二条斉敬ら幕府擁護派の御所立ち入りを禁止した上で小御所にて各雄藩諸侯を招集した山内容堂も泥酔状態で遅参したが主導権は薩長両藩と岩倉具視ら討幕派が握り王政復古の大号令となった。新政権樹立と天皇親政のもと摂政、関白、将軍職の廃止と総裁、議定、参与の三職を新設するなど親幕府派公卿の発言権を奪った。山内容堂は徳川家擁護に終始し徳川慶喜中心の列侯会議を要求したが泥酔状態の為「一部の公卿が幼沖(まだ幼い)の天子(当時、明治天皇は数え十六歳)を擁し、権威をほしいままにしようとしている」と大声で怒鳴った。これを聞いて岩倉具視は「天子を捉まえて幼沖とは何事か、大失言であるぞ」と詰め寄った。一旦休憩に入った時に薩摩藩の西郷隆盛は「短刀一本あればことは済み申す。」と言ったことを伝え聞いた容堂は命の危険を感じその後の発言が出来なくなったという。慶応四年、戊辰戦争が勃発すると容堂は自ら藩兵百名を率いて上京するが藩兵にはこの戦には参加するなと厳命、あくまで徳川擁護の姿勢を貫いた。しかし、土佐藩軍指令官を務めた板垣退助は薩長に後れを取ることを嫌い率先して倒幕に加わり江戸へ向けて進軍し土佐軍は功名を立てた。維新後、山内容堂は内国事務総裁に就任するがかつての家臣や身分が低かった者とは馴染めずまた堺事件の責任をとるという理由で明治二年に辞職しまた、堺事件とは戊辰戦争中に幕府は賊軍となり形勢不利とみた徳川慶喜以下旧幕府側の大名が大阪城を棄て幕府側兵士を残したまま江戸へ逃亡した為に泉州堺の警備を任されていた土佐藩兵が新政府に無断で上陸してきたフランス海兵数十名が堺の町を徘徊し乱暴狼藉を繰り返した為に土佐藩兵は水兵たちに帰艦するように説得するが言葉が通じずにもみ合いとなった。仕方なく藩兵は発砲しフランス人水兵十一名を殺害する。この事件により神戸に滞在中のフランス公使は莫大な賠償金と土佐藩兵二十名の処刑を申し入れてきた。土佐藩兵の隊旗を奪って逃走し先に発砲したのはフランス水兵だったにも関わらず理不尽な申し入れをしてきたが新政府は日本の国力を考えてこれを承諾してしまう。山内容堂は新政府の立場を配慮し小南五郎右衛門を派遣して堺事件の関係者二十九名の内二十名をくじ引きで決めさせて堺の妙国寺にて刑が執行され土佐藩士が次々と切腹が行われた。中には自分の腸を引きずり出してフランス軍艦長に投げつける壮絶な切腹もあったという。十一人目の切腹が終わったところでフランス側から切腹の中止を申し入れてきた為に残り九名の切腹は取りやめとなり助命された(フランス軍艦長があまりにも壮絶な切腹の為恐怖を覚えたとも侍達の仕返しに恐れたとも言われている。)以後、体調不良を理由に刑法官知事を打診されるがこれを辞退、王政復古の功により権中納言に任じられ議定職に就任、学校知事を兼任するが政治に参加する意欲がなく新政府の方針に不満を持っていたという。戊辰戦争の戦功により賞典録四万石、王政復古の功により五千石を終身下賜され多くの肩書きを持っていたがその後すべてを辞職して橋場の別邸にて十数人の妾を囲って日に三升の酒を煽り当時の人気役者・市川団十郎一座を貸切って豪遊を繰り返した。家令が諌めると容堂は「昔から大名家が倒産した例がない。俺が先鞭をつけてやる」と豪語し一向に改めようとしなかった。また、新政府の中で只一人気のあった木戸孝允(桂小五郎)を私邸に招いて酒を酌み交したがその時には土佐藩には薩摩、長州のような人材がいないことを嘆き武市瑞山を切腹させたことや坂本龍馬を冷遇したことを悔やんだという。容堂は明治五年、長年の酒が体を蝕み脳溢血を起こして半身不随となって二度目の発作で帰らぬ人となった。享年四十六歳・・・