2010年10月08日
坂本龍馬の理想の家庭 坂本千鶴と高松順蔵
坂本龍馬には一人の兄と三人の姉がいた。兄は坂本家を継いだ権兵、長姉が千鶴、次姉は栄といい柴田作左衛門に嫁いだが離縁され自害したといわれる。(龍馬の脱藩が原因で柴田家に責任が及ぶのを懸念して離婚したという説もある)三姉が乙女で龍馬がよく懐いた姉でとも師とも同志とも思える信頼を置いた。ここで記述する長姉の千鶴は龍馬より十九歳年上で龍馬が生まれたときには既に高松順蔵に嫁いでいて龍馬が幼い時からよく高松家のある安田浦に遊びに行ったという。高松順蔵は文化四年に土佐藩郷士・高松益之丞の長男として生まれる。祖父の高松弥三衛門から教えを受けたが、やがて江戸へ出て経書や歴史、儒学など様々な教養を身につけた。剣は長谷川流居合術を習得し名人の域に達したという。また、壬生水石のもとで書画や篆刻を学び和歌などを嗜み諸国を巡りながら多くの歌人や学者と交わったといわれる。八歳で継いだ家督を末弟の勇蔵を養子に迎え家督を譲り(次弟はオランダ医学を学び濤亭と名乗り開業医となる)、号を高松小杢と名乗り悠々自適な生活を送り私塾を開いて近在の壮士教育に務めた。龍馬の人生においても順蔵の思想に多大な影響を受け、またこの私塾から中岡慎太郎や後の海援隊士・石田英吉らを輩出した。剣の腕前でも土佐一の剣豪として藩主だった山内容堂の剣術指南の招聘を三度にわたって固辞し権力に阿るを嫌った。(ある城下から自宅に帰る途中の赤岡という所で悪さを働く上士の子弟が順蔵めがけて猛犬を放った。猛犬は吠え立てながら順蔵の目前で足を止め身動きしなくなったので悪ガキたちは順蔵が通り過ぎた後に犬に近づくと犬の胴と首が真っ二つに切り離されていたというが誰一人順蔵が抜刀するところを見ていなかったという。)龍馬をこの順蔵を慕い安田にある順蔵宅に時折立寄りひなが縁側から見える太平洋を眺めていたり姉・千鶴は龍馬を大変可愛り龍馬が江戸へ剣術修行へ出た時にはお守りを贈ったという。龍馬は京都寺田屋に居候を決め込んだ時には姉・乙女に手紙で「まるでここは安田の順蔵さんの家にいるような居心地だ」といって順蔵宅と懐かしんだ。順蔵は安芸を愛し地域の若者達にも大きな影響を与え中岡慎太郎をはじめとする勤王志士達を育てた人物であったという。明治九年に七十歳の生涯を閉じた・・・
2010年10月05日
誰が坂本龍馬を殺したか?2 渡辺篤
坂本龍馬が近江屋で暗殺したことを自供した今井信郎(前述)は共犯者として七名の見廻り組を供述したが今井以外は既に戊辰戦争で戦死していた為に官軍はこれ以上の追及は出来ず結局今井をただの見張り役として処理した。(西郷隆盛の口添えがあり今井の言葉を鵜呑みにせざる終えなかった)しかし三十三年の時が過ぎ「近畿評論」の取材には自分が龍馬を殺害したと供述を変え、他の仲間についていまだ存命の者の名は明かせないといっていた。また時が流れ大正四年に死の床についていた一人の剣客が身内の者に坂本龍馬殺害を告白した。その剣客は渡辺篤(見廻り組時代は渡辺一郎と名乗り、今井が自供し既に戦死していた渡辺吉太郎とは別人物)といい天保十二年に京都二条城御門番組与力・渡辺時之進の長男として生まれ、京都所司代御門番組見習となり西岡是心流剣術を修め十八歳で免許皆伝、他に円明流剣術や無辺流槍術、荻野流砲術、日置流弓術、大坪流馬術など様々な武芸を修めたという。元治元年、二条城上覧試合に出場し将軍・徳川家茂から白銀五枚を賜り、同年に京都文武場剣術指南となる。蛤御門の変には二条城の警備を担当し慶応三年にその腕前を買われ京都見廻り組に編入し肝煎に昇格する。そして見廻り組与頭の佐々木只三郎の招集によって龍馬暗殺の為に近江屋に向かったといいその後暗殺成功の恩賞として十五人扶持を賜ったという。しかし、渡辺篤の告白と先の今井信郎の供述には数々の矛盾点があり信憑性を疑われた。今井の供述にはない世良敏郎なる人物の名があがったが後年調べた資料に世良なる人物が実際に見廻り組に在籍していた。(渡辺の話によると世良敏郎なる武芸未熟な者が刀の鞘を忘れたので自分が世良に肩を貸し刀を自分のはかまの中に隠しながら酔った振りをして帰ったと具体的な内容だったという)話は少しずれたが渡辺は慶応四年、鳥羽・伏見の戦いで敗れ大和、紀州を経て江戸へ逃れた。維新後は薩摩藩の口添えで奈良県警の監察官になり後に本部長に昇進する。晩年は京都に戻って剣道場を開き後進の育成に努め大正四年、死の床についた時に弟・渡辺安平と愛弟子・飯田常之助を呼び件の告白をおこなったという。しかしこの時期は第一次坂本龍馬ブームが続いており売名当為だという評判が立ったといわれている。(第一次坂本龍馬ブームとは維新から明治前期には土佐藩脱藩者の坂本龍馬はほとんど無名でその功績は世に知られていなかったが日露戦争が懸念され世界最強といわれたバルチック艦隊の攻撃を恐れていた時、明治天皇の后である昭憲皇后の枕元に背が高く総髪で白装束の侍が現れ私は日本海軍を守護する者なりといって日本の勝利を誓ったという。翌朝に皇后は田中光顕を呼びこの事を尋ねたのでもしやと想い坂本龍馬の写真を見せた。皇后は写真を見るやこの人物ですといったので一躍龍馬ブームが巻き起こったという。(田中光顕は土佐藩出身なので坂本龍馬を売り込んで土佐藩の名を高める為に仕組んだといわれているが田中光顕は陸援隊幹部で中岡慎太郎の信奉者だったので名前を出すなら中岡慎太郎の写真を出すべきだろうと思う。・・・)
2010年10月03日
誰が坂本龍馬を殺したか? 今井信郎
坂本龍馬の暗殺には諸説があり未だに確実なことは解っていないといわれています。一説によると龍馬のよき理解者であり最も信頼する薩摩藩の西郷隆盛が命令を出したという説、(薩摩藩は武力による倒幕を主張したが龍馬は日本人同士の殺し合いを嫌い大政奉還から王政復古と無血倒幕を目指したので西郷は龍馬が邪魔になったという説で実際に近江屋付近で鹿児島弁を話す侍が多数いたとの証言もあったという)また、土佐藩の後藤象二郎が坂本龍馬の船中八策の大政奉還論を自分だけの手柄とするため龍馬の暗殺を命じたという説(しかし、船中八策を書いた時には龍馬と後藤のほか数名の海援隊士が同席していたので龍馬一人を殺したところで無駄)、また新撰組説や新撰組から分離した高台寺党一派(新撰組はこの時高台寺党の伊東甲子太郎暗殺を計画中で龍馬にまで手が廻らなかったといわれた。)、紀州藩説(いろは丸事件の報復)など様々ですが幕臣京都見廻り組の佐々木只三郎らが一番有力とされたが当時幕府は坂本龍馬を殺害してはならないと各幕吏に通達していたといわれ定かではない。前置きはここまでとして龍馬の暗殺を自供した今井信郎は天保十二年、三十五俵取旗本・今井守胤の子として江戸湯島天神下に生まれた。十歳で御中間として出仕、十八歳で直心陰流の榊原健吉に弟子入りし二十歳で免許皆伝(片手打ちという独自の技を編み出したが某水戸藩士との試合で相手の頭蓋骨を叩き割り死なせてしまった為に師匠から以後この技の使用を禁止された)となり講武所剣術師範を拝命する。二十三歳で神奈川奉行所取締役・窪田鎮章の配下となり鎮章の父・窪田鎮勝から扱心流体術という柔術を習う。慶応三年、龍馬が暗殺される僅か一ヶ月前に遊撃隊頭取として上洛し京都見廻組に編入された。今井自身の供述によると見廻組与頭・佐々木只三郎の指揮の下、今井信郎、渡辺吉太郎、高橋安次郎、桂隼之助、土肥仲蔵、桜井大三郎、結城無二三ら七名が近江屋に向かったという。(今井自身は見張り役で実際に二階へ斬り込んだのは渡辺吉太郎、桂隼太郎、高橋安次郎の三人だと供述するも実行犯に名指しされた三人は鳥羽伏見の戦いや戊辰戦争で既に戦死していたため真実かどうかは不明、その後の明治三十三年の近畿評論の取材に対して自分が実行犯だと供述を変えている)今井信郎は慶応四年、鳥羽・伏見の戦いで斬り込み隊として参戦するが敗北、江戸へ戻って古屋佐久左衛門が隊長を務める「衝鋒隊」(鳥羽伏見で戦死したかつての上司・窪田鎮章が率いていた十二連隊の残兵と十一連隊の残兵で組織)の副隊長として函館戦争(函館政府では海陸裁判役兼軍監に推された)まで戦い抜いた。しかし、明治三年、五稜郭陥落後に降伏し先の坂本龍馬暗殺を供述した。処刑を覚悟した今井だが薩摩藩の西郷隆盛の助命嘆願により禁錮刑を受けると獄中では大鳥圭介に英語を教わったという。(この西郷の口添えが西郷が龍馬暗殺の黒幕説を疑わせた)明治五年、函館降伏者の赦免が始まると今井も釈放される。今井は旧幕府の転封先の静岡に移住し静岡城の敷地内の藩校を払い下げてもらい私学校を設立、英語や数学、農業を教えたが軍事教練も行った為に静岡県庁に怪しまれた。今井は速やかに学校を県庁に無償で献納したので県庁は感心して官吏として今井を雇い入れたという。明治九年、十等出仕の伊豆七島巡視を命ぜられたが翌年に西南戦争が勃発すると今井は依願退職して東京に出る。今井は衝鋒隊時代の部下を集め警視徴募隊一等中警部心得となると部下を率いて九州に乗り込み官軍としてではなく命の恩人で西郷に合流しようと考えていたが出発前に西郷自決の報を受け部隊は解散、警部の職を辞しては静岡県榛原郡初倉村に帰農し村長として牧ノ原台地で他の幕臣達と開墾に励む。この頃、静岡にキリスト教の宣教師が盛んに布教活動を行っていたがこのことを不愉快に思っていた旧士族たちは宣教師を斬ろうと話し合った。今井はその斬り役に選ばれ宣教師に会うがこの言葉に感銘を受けキリスト教に入信し以後静かな余生を送った。大正七年に脳卒中によりその生涯を終えた。享年七十八歳・・・坂本龍馬の養子となった元海援隊の高松太郎(養子後は坂本直)もキリスト教に改宗し龍馬の法要に今井信郎を招待した
というが今井が本当に暗殺犯ならどういう気持ちで龍馬の墓前に立ったのか今では知るよしもない。
というが今井が本当に暗殺犯ならどういう気持ちで龍馬の墓前に立ったのか今では知るよしもない。
2010年10月02日
亀山社中の母 大浦慶
大浦慶は文政十一年、長崎油屋町の油商・大浦屋当主・太平次(婿養子)と跡取娘佐恵の長女として生まれる。まだ幼いお慶は跡取娘として賀古市郎右衛門の次男・大五郎を婿養子に迎えともに育ったが大五郎が十九歳で亡くなってしまうお慶がまだ九歳の時であった。幕末の動乱期、油の専売権は薄れ外国からの油が大量に入り始め大浦屋は廃業の危機を迎えた。更に追い討ちを掛けるように安政十四年、出来鍛冶屋町より発生した火事が全戸五百二十六棟を全焼する大火となり大浦家もその被害をうけたうえに火事場のドサクサに紛れて金目の物を持ち出した父・太平次が遊女と駆け落ちしてしまった。お慶は弱冠十六歳で大浦屋再興の決心をし翌年蘭学の修行に長崎にきていた島原の庄屋の息子・幸次郎を婿養子に迎えるが気に入らず祝言の翌日に手切れ金を払って追い出したという。祖父の薫陶を受けた小曽根屋(後の海援隊の支援者)やいろいろな人の支援で路地売りをはじめ、また遊女に化けて長崎出島に入り行商なども行った。嘉永六年、大浦屋出入りの鄭に付けて貰った若い通訳嗣品川藤十郎の協力により出島在留のオランダ人テキストルに談判して佐賀の嬉野茶をイギリス・アメリカ・アラビアの三国へお茶の見本を送ってもらう。三年後の安政三年、イギリスの貿易商ウィリアム・オールトが来航しテキストルに託したお茶の見本を見せアメリカ向けに大量の注文をした。嬉野茶だけでは足りず九州一円からお茶をかき集めた一万斤(約6トン)をアメリカへ送った。これが日本茶貿易の先駆けとなり以後十年間大浦慶は莫大な富を得て大浦家再興を見事果たした。大浦慶の名声は長崎中に知れ渡り坂本龍馬や大隈重信、松方正義らと交流が始まり志士達から「肝太おっかあ」と呼んで親しんだという。特に坂本龍馬とは武器商人グラバーを介して知り合い亀山社中設立の際には多額の資金援助を行い龍馬とともに来た陸奥宗光の才能に惚れ込み担保に陸奥を貰い受けたいと申し入れたという。明治維新になると志士達は潮の引くようにお慶のそばから離れ、鎖国時代は長崎が日本唯一の貿易港だった時代は過ぎお茶の大産地の静岡に近い横浜港にその座を奪われ始めた。(釜煎り製茶の九州茶に対し静岡の蒸し茶の方が外国人に好まれたともいわれている。)長崎の日本茶貿易の衰退を予感していたお慶は新しい商取引を模索し始めていたころの明治四年、熊本藩士・遠山一也が通詞・品川藤十郎がお慶を訪ねてきた。熊本産の煙草十五万斤を英国商オールトへ売り込む取引の手附金受取の仲介名義を貸して欲しいと頼まれる。はじめは断っていたお慶も熊本藩支配頭が責任を持つという一札を持参したり、お慶が若いころ弟のように面倒を見た品川藤次郎の勧めで連判した。しかし、いつまでたっても長崎に煙草が送られてこないことでオールト商会から手附金の返還を迫られる。お慶は詐欺に会ったことに気づき熊本藩と交渉し遠山の家禄五年分の三百五十二両の支払いに応じた。お慶は何とか手附金の返還に応じたがオールト商会から長崎県役場に遠山一也らと共にお慶も提訴されてしまう。お慶もまた、遠山と熊本藩福田屋喜五郎を訴えるが裁判の末、遠山は詐欺罪で懲役十年の判決とお慶自身保証人として千五百両の賠償責任を負い更に裁判費用やこの事件による借財は六千両にも膨れ上がった。お慶は家屋敷を抵当に毎月六十二両を返済し続るが既に信用を失った大浦屋は没落したが死ぬまでにこの莫大な借財は完済したという。明治十二年、アメリカ第18代大統領・ユリシーズ・グラントが長崎に寄港した際に国賓として各県令と共に大浦慶の艦上に上がる栄誉を受けた。明治十七年、長崎県令となっていた元海援隊士・石田英吉は農商務省権大書記官・岩山敬義にお慶が既に危篤状態である為、生きているうちに功を賞して欲しいと要請する。その要請が受け入れられる電報が届くと翌日、県令の使者が日本茶貿易の先駆者としての功労褒賞と褒賞金20円をお慶宅に届けたがその2週間後にお慶はその波乱に満ちた生涯を閉じた。享年五十七歳・・・信用、信頼で商売を発展させ莫大な富を築いた大浦お慶は幼いころから大浦屋に出入りし弟のように可愛がった品川藤次郎にだまされすべてを失い、幕末には私財を費やして支援してきた大隈重信ら志士たちには見向きもされなかったが海援隊士だけはその恩義を忘れずにいたことに胸をなでおろす。