2010年09月29日

吉田松蔭の最初で最後の恋 高洲久子

pct_ep01.jpg高洲久子は中国地方の雄・毛利家に代々仕えた毛利家臣団杉原三家の一つ「高須家」の出身で高杉晋作の遠縁にあたるといわれている。吉田松陰が嘉永七年、浦賀に黒船が最来航した際に密航を企てたが失敗、どうせ発覚するならと幕府に自首した。幕府は松蔭の身柄を長州藩に預け、萩の野山獄へ幽閉した。この時に、野山獄には十一人の入獄者が居り松蔭は年齢二十五歳で一番年下だったといわれ最年長は在獄四十二年で七十四歳の大深虎之助や三十七歳の富永弥兵衛(後に国木田独歩の小説「富岡先生」のモデルになった人物)らが居った。その中の紅一点が在獄二年、三十七歳の高洲久子であった。松蔭は入獄当時は軽く見られていたが獄内で塾を開き囚人一人ひとりの得意分野を活かした講義を行い(先ず松蔭は書の得意な富永弥兵衛に弟子入りし習ったという。)また、俳句の得意な囚人を中心に俳句会を催した。松蔭は獄中座談会や読書会を開き「孟子」を講義するなど皆と共に学びあった。(牢番人や牢役人等も講義を聞き集まったという)、野山獄は藩の罪人は二名のみで他の者は親族から申し出による禁錮だったので囚人同士が一箇所に集まることは自由であったらしい。話を戻して高洲久子という女性は萩藩で石高三百三十国取りの家柄の跡取り娘として生まれ(生年月日は不明)婿養子を迎えていたがその夫が若くして亡くなってしまった。久子は寂しさを紛らわすように三味線に興味を持つが次第に没頭するようになると歌や浄瑠璃、ちょんがれ(浪花節のはしり?)などにも傾倒するようになり萩で有名な芸能人(当時、芸能を生業としていた人たちは殆ど被差別部落民であったといわれる。)勇吉と弥八(この二人は明治維新まで晒しの誅伐という刑を受けた)らと交流、自宅に招いて酒を振舞ったり翌朝まで宿泊させたので亡夫の親族から訴えられ藩の取調べを受ける。(封建時代当時は被差別部落民との接触自体が罪となった)久子の義父は不義密通を疑ったが久子は「普通の人と普通の付き合いをしたまで」と不義を否定したが家族の申し出で野山獄へ借牢となった。(一方、松蔭は江戸で密航失敗後に自首をして長州藩へ護送された際に罪人を運ぶ唐丸籠を担いでいた四人の被差別部落民と親しく話すうちに長州到着までの間学問を教授したというほどその人たちに対し偏見はなかった。)高洲久子と松蔭は獄中歌を介して親しくなり心を通じ合った。(かといって下世話の話お互い獄中であったので肉体関係はなかったと見られる)安政二年、松蔭は実家の杉家預り謹慎となり野山獄を出ることになった。久子は松蔭に「鴨立ってあと淋しさの夜明けかな」の一句を贈っている。(実際は鴨{かも}ではなく鴫{しぎ}で松蔭の字{あざな}である子義に掛けているという)高洲久子は当時三十七歳で亡夫との間に二人の女の子をもうけ(長女は婿をとって高須家を継いだ。)松蔭は二十五歳であったため十二歳も久子のほうが年上であった。しかし久子の理念である「すべての人は平等である」と松蔭も同じ考えであったことからお互いに惹かれあったという。(松蔭の「草奔崛起」藩や藩士だけの力ではなく民衆みんなの力で改革は成されるべきという思想で松蔭死後高杉晋作に引き継がれ奇兵隊創設のきっかけになった。)松蔭は出獄後、藩に野山獄の囚人の釈放を働きかけ八割の囚人が出獄できた(その中で獄中知り合った富永弥兵衛{後の富永有隣}を松下村塾の講師に招いた)が高洲久子は親族の反対にあって釈放されなかった。安政五年、幕府は天皇の承諾を得ず日米修好通商条約を締結したことに激怒した松蔭は老中・間部詮勝の暗殺を計画するが失敗、長州藩は慌てて松蔭を再び野山獄へ幽閉する。ここで高洲久子と再会し平穏な日々を送る(松蔭は獄居の家居も大差はないと書き残している)が半年後、松蔭の身柄を江戸へ送ることが決定する。江戸へ送られる二日前に久子は獄中で自ら手縫いした手布巾を贈ったので松蔭はたいそう喜び「箱根山 越すとき汗の い出やせん 君を思ひて ふき清めてん」という一句を贈った。出立当日、久子は「手のとはぬ 雲に樗(おうち)の 咲く日かな 」と別れの一句を贈ると松蔭は一通の封書を手渡し江戸へ向け出立していった。封書の中には「一声を いかで忘れん ほほとぎす 」と書いてあった。翌安政六年、松蔭は江戸にて安政の大獄最後の犠牲者となり斬首された。高洲久子は明治新政府によって釈放された(当時久子五十一歳)が父親との関係が修復されることなく勘当状態のままで戻る場所がなかったという。晩年、永い獄中生活によって目は衰え足が萎えて曲がらなかったといい苦労を重ねたが長寿を全うし八十八歳でこの世を去った。平成十五年に松下村塾の門下生で最後まで存命した長崎造船所初代所長を務めた元長州藩士・渡辺蒿蔵氏(在塾当時は天野清三郎)の遺品が萩市に寄贈された際に一首の歌が刻まれたお茶碗が発見された。「「木のめつむ そてニおちくる 一聲ニ よをうち山の 本とゝき須(ホトトギス)かも」と釘のような物で彫られている最後に「久子 六十九歳」あった。意味は「木の芽を摘んでいると木の上からホトトギスの一声のが聞こえてきた。このホトトギスの鳴き声を聞くと松陰先生のことを思い出します。」という意味らしい。松蔭が野山獄から江戸へ送られる際に高洲久子に贈った最後の句「一声をいかで忘れんほととぎす」の一声に掛け、松蔭の号である子義(ほととぎすのことで正岡子規の子規と同意語らしい)松蔭の死後二十七年も過ぎて久子が六十九歳になっても松蔭への尊敬と熱い想いは衰えてはいなかった。・・・
  
posted by こん at 10:36| Comment(2) | TrackBack(0) | 長州藩 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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