2010年07月10日

龍馬が愛した可愛い姪 坂本春猪

po_harui.gif坂本春猪は天保十四年、坂本龍馬の長兄・権平(龍馬伝では杉本哲太)とその妻・千野(龍馬伝では島崎和歌子)の娘として生まれる。龍馬は叔父にあたるが八歳しか歳が離れておらず妹のように接してした。(龍馬伝では春猪役にAKB48の前田敦子)現在確認できる手紙は二通残っているがどれも龍馬が春猪を茶化すような文面で尚且つ愛情のこもった手紙になっている。手紙の内容は面白く春猪の顔のあばたを金平糖の鋳型のようだといったり、長崎から西洋のおしろいを贈る約束をしたり、また春猪がかんざしをねだったりと仲の良い兄妹のようだった。文久三年、春猪は土佐藩家老山内下総の家来・鎌田実清の次男・清次郎を婿養子に迎える。その後、元治元年に長女・鶴井を慶応元年に次女・兎美を生んだが夫・清次郎は脱藩して長崎の龍馬の元へ走り海援隊に入隊する。しかし、清次郎は使い物にならず龍馬は姉・乙女に「何も思惑のなき人」と低評価の手紙を出し土佐へ帰るように説得する。明治三年に土佐に戻った清次郎は脱藩罪で禁足となるが直ぐ赦免され坂本家を離れ実兄が亡くなった為に実家の家督を継いで三好賜と改名(後に清明)したために妻の春猪も三好登美と名を改める。その後、三好家の長男として譲をそして長女を亀代を生む。夫・清次郎はその後自由民権運動に傾倒するが広島に移って逝去する。春猪は坂本家の長女・鶴井(この時はもう鶴井は亡くなっている。)の夫で坂本家を継いだ直寛(坂本直寛は龍馬の姉・千鶴の次男で高松太郎の弟、坂本家を継いで自由民権運動家だったが北海道開拓の為一族を率いて北海道に移り住んだ)を頼って北海道に移り住むが直寛の後妻とあわずに土佐へ帰る。その後、三好家で生んだ亀代が後妻に入った税務官吏・楠瀬済の家で晩年を過ごし大正四年に逝去する。享年七十一歳・・・・
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2010年07月09日

坂本龍馬の現地妻 お元・お蝶・お徳

坂本龍馬の恋人だった平井加尾や婚約者の千葉佐那、妻になった楢崎龍など龍馬の愛した女性は有名ですが、長崎丸山芸妓のお元の生年没日は伝わっていない。肥前の国茂木(現・長崎県茂木町 びわで有名な所)の出身で丸山芸妓の数ある中でも特に琴や三味線がうまく、よく気の付く美貌の持ち主だったといわれている。龍馬ははじめ亀山社中(後の海援隊)の本部のある小曽根乾堂の屋敷でお龍と共に住んでいたが諸事情(紀州藩船衝突事故の処理など)によってお龍を下関の豪商・伊藤助太夫の屋敷に預けていた。妻・お龍がいなくなって身軽になった龍馬は丸山芸妓のお元と暮らし長崎での多忙な生活の安らぎの場とした。また、亀山社中が船を失い経営難に陥った打開策として龍馬は土佐藩参政で龍馬ら元土佐勤王党の宿敵・後藤象二郎との会談(清風亭会談)の席で後藤は龍馬の緊張を溶かす為にお元を同席させたといわれている。その後、龍馬は後藤と意気投合し二人で京都に向けて出航(船中八策)し京都近江屋で暗殺されてしまうまでお元は龍馬と会うことはなかった為、その後の詳細はわかっていない。また、龍馬は長崎滞在時代に錦路という芸者とも深い関係になったといわれているが詳しくは不明。他に龍馬は京美人で公家の腰元をしていたお蝶という女性を江戸へ連れて行き江戸浅草蔵前町に居を構えて現地妻としたと土佐勤王党の同志・大石弥太郎は回顧録で語っているし、また土佐にいたころ(平井加尾と交際中?)に高知城下の漢方医・岩本里人の娘・お徳という女性と深い関係になったといわれている。お徳は中村小町と評判の美貌で龍馬は結婚を申し込んだがあっさりと断られたという。(お徳はその後、美貌を聞きつけた山内容堂公の側女・音丸の付け女中となり容堂のお手付きとなるも回りからの嫉妬の為に暇をとって大坂に出て水戸藩士・野村信之と結婚するが夫と死別後は故郷の高知中村に戻り昭和十四年、九十七歳の長寿を全うしたという。この時代、倒幕のために多忙を極めた偉人達は各地で現地妻を持っていて心の拠り所にすると共にその地の情報収集などに利用したといわれている。西郷隆盛は京都滞在中、お虎という丸々と太った祇園の芸妓を贔屓にしていたが料亭で下働きをしていた巨漢のお末という女性に一目惚れ、その女性を妾としその体型から「豚姫」と呼ばれたという。また、大久保利通は京都祇園の料亭一力亭の主人・杉浦治郎右衛門の娘で杉浦勇(おゆう)という女性を愛人とし、四人の男子を産ませている。
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2010年07月05日

龍馬の兄貴分でよき理解者 溝渕広之丞

MizobuchiHironojo.jpg溝渕広之丞は文政十一年、土佐国土佐郡江ノ口村の郷士(下士)の家にに生まれる。(龍馬より八歳年上だった。)嘉永六年、江戸へ剣術修行に出る坂本龍馬に同行して江戸へ出る。(一説には溝渕は先に江戸の千葉道場に入門していたが一旦土佐に帰っていて龍馬の父・八兵に頼まれて江戸へ同道したといわれている。)溝渕は千葉道場で剣術修業をする一方で軍学家の佐久間象山塾に入門して西洋砲術を習う。また、龍馬にも佐久間象山を紹介して入門をさせ砲術や蘭学を学んだという。しかし翌年には吉田松陰の米国軍艦密航事件に連座し投獄された。その後、脱藩した龍馬とは接触なく溝渕は土佐藩で勤勉に砲術の修行を重ねた。慶応二年、溝渕は藩命によって長崎に赴き砲術や舎密学(せいみがくと読み今でいう化学)の修行に励み時勢探索なども行った。この時期に龍馬も長崎で亀山社中を創設し滞在していたので溝渕と龍馬は久しぶりの再会となり溝渕は長崎での竜馬の活動を支えた。また、龍馬の紹介で長州藩の桂小五郎と面会を果たしかつて土佐勤王党粛清弾圧によって時勢に乗り遅れていた土佐藩と長州藩の接近に尽力した。あるとき溝渕は龍馬と共に長崎の道を歩いていると前方から来る土佐藩海軍幹部の武藤某に気づき身を隠した。溝渕はそんな龍馬をいぶかり問い質したところ脱藩者の胸中を記した手紙を貰う。溝渕はその手紙を武藤に見せ理解を求め長崎に来ていた土佐藩参謀の後藤象二郎との会談を画策する。元土佐勤王党を弾圧粛清し親友の武市半平太をしに追いやった後藤を恨んでいた竜馬と土佐藩の身分制度に固執し下士である坂本龍馬を虫けらくらいにしか思っていない後藤とを長崎清風亭で合わせることにした。龍馬としても亀山社中の経営に行き詰まり資金難で困っていたし後藤象二郎も時勢に乗り遅れた土佐藩の挽回の為、薩摩藩や長州藩に顔の効く龍馬と手を組むほうが得策との利害関係が一致した。清風亭会談には場を和ませる為に龍馬の馴染みの丸山遊郭の芸者・お元を同席させるなどの配慮を見せた。龍馬と後藤は意気投合し後の船中八策に繋がる。坂本龍馬にとっても資金難の亀山社中から土佐藩の援助により海援隊として再出発をきった人生の転機を溝渕広之丞が担ったといえる。慶応三年、藩命により溝渕は土佐藩に帰国して藩の持筒役として藩兵に砲術を指導し下士から上士となる?。(身分制度に厳しい土佐藩ではこれは事実とは考えにくい)維新後は隠棲し三ヵ月ほど会計士を務めるが辞任したあと養子を迎えて以後四十年間隠遁生活をおくる。享年八十一歳で生涯を終えた。維新後の生活に弟分の龍馬の暗殺が影響しているかもしれないが土佐の三伯といわれる後藤象二郎・板垣退助・佐々木高行よりも溝渕広之丞のほうがはるかに維新の立役者だったのかも知れない。
posted by こん at 16:57| Comment(1) | TrackBack(0) | 土佐藩 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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