2010年06月27日

龍馬が母と慕った寺田屋の女将 お登勢

o0240032010465758648.jpgお登勢は文政十二年、近江国大津(現・滋賀県大津市)で旅館を営む大本重兵衛の次女として生まれる。十八歳で京都伏見の船宿・寺田屋六代目伊助に嫁ぐが伊助は怠け者で京都木屋町の妾宅に入り浸って寺田屋へは帰らなかったという。寺田屋は江戸初期から続く伏見の老舗船宿(伏見の船宿は淀川から三十石船で航行する乗客の食事代や手数料、宿泊料で生計を立てていた。)で船頭も多く抱え、船足が速く評判の船宿であったがお登勢はこの船宿を一人で切り盛りをしていた。また、お登勢の接待目当ての客も多く早くから薩摩藩の定宿になっていたという。元治元年、夫伊助は放蕩が祟り三十五歳の若さで没すると一男二女を育てながら更に五人の捨て子を自分の子供と隔てなく育て上げたという。生来の性格から頼まれたことは嫌とはいわず身分の隔てなく面倒を見た(特に尊王攘夷の志士達を多く匿い幕府には危険人物と見なされた)為に入牢させられかけた。文久三年、薩摩藩尊王派(主に精忠組)の暴発前に島津久光の命によって鎮撫使を差し向けた事件(寺田屋騒動)の折にはお登勢は子供達をかまどの裏に隠して一人で帳場を守り騒動後は血で染まった畳やふすまをすべて取り替え天井の血糊をきれいにふき取らせ翌日には通常商いを始めたという。薩摩藩は多額の迷惑料を支払ったが騒動で亡くなった有馬新七ら九人の法要を行わなかった。お登勢は九人の位牌を作り寺田屋の仏壇で自ら供養した為に薩摩藩士達に信頼され、当時幕吏に狙われていた坂本龍馬の庇護を頼まれた。(当時の薩摩藩は幕府側の立場的に伏見藩邸に龍馬を置いとけなかった。)禁門の変後、京都の半分は焼け出された。この時龍馬はお登勢に行く場所の無い楢崎龍の面倒を頼んだといわれている。お登勢は快くお龍の面倒を見お龍をお春と呼んでわが娘のように可愛がった。また、龍馬もこの寺田屋を我が家のように出入りしお登勢の実子・殿井力の懐述によれば龍馬が居るだけでお登勢は生き生きとして匂い立つ湯王だったといい龍馬もお登勢を「おかあ」と呼んでいたらしい。龍馬が二階に居る時はお登勢の子供達はよく遊びに上がり龍馬の面白い話を聞いたという。慶応二年、幕府の捕方による寺田屋襲撃の時にはお登勢は捕方によって屋外に連れ出されどうすることも出来なかったがお龍の機転によって怪我を負いながらも逃走した。龍馬はお龍と共に薩摩の船で鹿児島へ渡った後もお登勢とは書簡のやり取りが続き龍馬は残してきたお龍の母や妹達の世話を頼みお登勢はそれに答えて生活の援助をしたという。龍馬暗殺後は土佐でしばらく暮らしていたお龍が龍馬の姉乙女との不仲で京都に出てきた時に庇護していた。明治十年、お登勢は四十九歳の若さで亡くなった。龍馬は「学問のある大人物也」と高く評価し勝海舟は大胆かつ繊細な人物と書き残している。
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2010年06月09日

龍馬と親交の深かった土佐上士 佐々木高行

Takayuki_Sasaki_cropped.jpg佐々木高行は文政十三年、土佐国吾川郡瀬戸村(現・高知県高知市)に土佐藩上士・佐々木高順の次男として生まれる。通称は三四郎として幕末を駆け抜ける。生前に父親を亡くし苦境の中、国学を鹿持雅澄に学び(同門で土佐勤王党の武市半平太と知り合う)麻田勘七に剣術を習った。二十五歳の時に江戸へ遊学に出て安井息軒らに学んで視野を広げた。(鹿持雅澄や安井息軒らに学んだことで勤王思想に目覚めたと思われる)遊学を終え土佐に帰った高行は郡奉行、普請奉行、大目付を経て大監察に任命される。大監察時代は土佐勤王党とたびたび会談を持ち武市半平太と親交を深めた。(佐々木は上士でありながら尊王思想を持ち同門の武市に理解があった。)しかし、八月十八日の政変以後公武合体派が力を持ち佐幕派の山内容堂は土佐勤王党の弾圧を始めた為に佐々木は次第に勤王党と距離をとり始めた。だが幕府による長州征伐が起こると藩主・山内豊範が妻(長州藩主・毛利敬親の娘)を離婚しようとした時には佐々木は猛反対し土佐藩と長州藩の絆を辛うじて守った(
後に離婚して上杉家の娘を継妻とした)。また、坂本龍馬との出会いは長崎で龍馬の亀山社中の経営不振に陥った時で土佐藩が援助することになった為(この時から海援隊と改名し土佐藩の交易及び海軍の役目も負う)、佐々木は海援隊を監督する立場で長崎に赴任する。龍馬とは大変気が合い佐々木の下宿先によく龍馬が泊まりに来たらしい。この時期から再び佐々木に勤王意識に火がつき海援隊の勤王派を援助、京都留守居役時代には中岡慎太郎の陸援隊の屯所を藩に無断で提供したり彼等の信頼を得て薩土盟約や大政奉還の助言を土佐藩山内容堂に進言した。また、坂本龍馬の紹介により長州藩の桂小五郎と面会したり中岡慎太郎の口利きで岩倉具視と協議したという。龍馬と中岡の暗殺後、佐々木は一時的に海援隊を預かり戊辰戦争時、一部海援隊士を率いて長崎奉行所を占領するなど倒幕に尽力した。明治維新を迎えると佐々木は参議、司法大輔を務め明治四年に岩倉使節団の一員として欧米各国を視察した。帰国後は侍補に就任(幕末の佐々木三四郎の思想であった天皇親政に動き出す)、薩長による門閥政治を批判し谷干城や元田永孚と共に「天皇親政運動」を主導して伊藤博文らの排除に動いた。しかし、薩長閥の巻き返しによる明治十四年の政変で敗れ侍補を辞任した。その後、佐々木は明治天皇の信任が厚く天皇の意向によって参議兼工部卿に就任した。工部卿時代には電話創業の必要性を知り発議するなど先見的運動を起こす。明治十七年、維新以来の功績により伯爵を授かり土佐三伯(板垣退助、後藤象二郎)の一人に数えられる。翌年から内閣制度が始まると閣外に出て宮中顧問官、次いで枢密顧問官に就任。この時期、大正天皇をはじめ皇子、皇女の養育係主任を務めた。明治二十九年、関係者の強い要望によって当時経営状態が悪化していた皇典講究所(後の国学院大学、日本大学、近畿大学)の第二代所長に就任して経営再建に尽力した。明治四十二年に侯爵を拝命するが翌年、八十歳で病没する。佐々木高行は天皇親政派の政治家として薩長門閥政治を批判しながらも「薩長門閥派VS自由民権派」の対立による国内分裂を防ぐ為に調整役に務めた優れた政治家であった。
posted by こん at 15:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 土佐藩 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年06月08日

龍馬の親友で槍の達人 三吉慎蔵

miyoshi.jpg三吉慎蔵は天保二年、長州支藩長府藩の今枝流剣術師範・小坂土佐九郎の次男・友三郎として長府横枕に生まれた。天保八年に田辺惣左衛門の養子となったが後に復籍する。嘉永二年に萩の明倫館に入学、長州本藩の師範・小幡源左衛門から宝蔵院流槍術の免許皆伝を受け名前を慎蔵と改める。安政四年、長府藩士・三吉十蔵の養子となり藩主・毛利元周の近侍扈従役として江戸へ随従する。江戸では江川太郎左衛門について西洋砲術を学び文久三年、馬関の外国船砲撃事件で大砲鋳造掛御締方兼精兵隊肝煎に就任する。慶応二年、長府藩士・印藤肇の仲介で坂本龍馬と知り合った。慎蔵は京都の情勢を探るよう長府藩主の命を受け龍馬とともに馬関を出発し入京する。伏見の寺田屋で龍馬と会談中に伏見奉行所捕方百数十人の襲撃を受ける。後に龍馬の妻になるお龍の機転によって脱出し龍馬は高杉晋作から贈られたピストルで応戦、左手指に重傷を負う。慎蔵は得意の槍で応戦しながら龍馬を材木小屋に隠し単身薩摩藩邸に走り龍馬の危機を知らせ助けた。薩摩藩に匿われた龍馬とお龍、三吉慎蔵らは大坂から薩摩藩の軍艦・胡蝶丸に乗って鹿児島を目指した。途中、下関で慎蔵は下船し藩主に京都の情勢を報告した。慎蔵は寺田屋の功により長州藩主・毛利敬親より刀を下賜され長府藩からは二十石の加増、同藩目付役に任ぜられた。第二次長州征伐が始まると慎蔵は長府藩五番大隊軍監兼応接、六番遊撃大隊軍監に就任した。高杉晋作の指揮の下で幕府軍小倉藩と戦い勝利した。慶応三年、いろは丸事件の解決のため長崎から土佐に向かう途中に寄港した龍馬は海鮮問屋の伊藤家にお龍、君枝姉妹を預けもしもの後事を託した遺書らしき内容の書を親友・三吉慎蔵に残した。龍馬の死後、約束通りにお龍、君枝姉妹を実家に引取って面倒を見、龍馬の希望通りに妹君枝を海援隊士・千屋寅之助に嫁がし、お龍を土佐の坂本家に送り届けた。(後にお龍は坂本乙女と気が合わず家を飛び出す)維新後は豊浦藩(長府藩)権大参事を務めた後、長府藩主毛利家の家扶となり上京、廃藩置県後は毛利家家扶のまま北白川宮家御用掛として出仕し北白川宮家家扶後に家令として明治二十三年まで務め辞任。毛利家当主・元敏の帰郷に伴い慎蔵は長府江下に居を移す。明治三十四年に三吉慎蔵は病没、享年七十一歳・・・三吉家は代々法華寺に墓所があるが藩主・元敏より功山寺に墓所を給う。慎蔵はそれほど藩主の信頼が厚い人物であったと推測される。
posted by こん at 16:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 長州藩 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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