2010年03月01日

吉田東洋を暗殺した男 那須信吾

po_nasu.jpg那須信吾は文政十二年、土佐藩家老の深尾和泉守重良の家臣・浜田宅左衛門光章の三男として生まれる。六歳の時に父が病死してからは兄・金治充美(田中光顕の父)に養育される。信吾は当初医学を志し主家である深尾家典医主座・山崎燮堂に弟子入り剃髪し信甫と名乗る一方で剣術を古沢八右衛門に学び身の丈六尺(182cm)を生かし見る見る力をつけ「天狗様」とあだ名されるほどだったという。更に修行を積むため高知城下に出た信吾は坂本龍馬が通っていた日根野道場に通うようになる。(この頃に坂本龍馬の人柄に惚れ傾倒したと思われる。)安政二年、梼原村の郷士・那須俊平に見込まれ俊平の娘・為代と結婚し婿養子に迎えられる。那須俊平は土佐藩随一の槍の名手で多くの門弟を抱える道場を構え信吾も稽古に励んだという。その後、信吾は武市半平太の道場に入門し勤王思想に傾倒していき文久元年に土佐勤王党が結成されるとこれに加盟する。(吉田東洋暗殺実行犯としてその名簿からはずされている)文久二年、土佐藩の暗愚を痛切に感じていた坂本龍馬は脱藩を決意し、先に脱藩したが武市瑞山に報告する為戻っていた沢村惣之丞と共に高知城下を出発し梼原村に到着、那須屋敷にて一泊した。翌朝、信吾は父・俊平と共韮ヶ峠まで道案内をして脱藩を助けた。信吾はその一ヵ月後、武市瑞山の命により吉田東洋暗殺の実行部隊に選抜され安岡嘉助、大石団蔵らと共に吉田東洋を待ち伏せる。吉田は藩主・山内豊範の参勤交代前の最後の講義の為、酒肴が振舞われほろ酔い気分で下城、自宅付近で襲撃したという。東洋暗殺に成功した信吾はあらかじめ旅支度をしていた為にすぐさま脱藩して長州藩領に入った。下関の白石正一郎邸にて養父・俊平に暗殺の詳細やその後のことを手紙に書き送った。(表向き、俊平は信吾の行動を非難したが密かに槍術免許皆伝書を授け交流を続けたという。)白石邸を出た信吾は船で讃岐、兵庫を経て大坂の長州藩邸に潜伏し吉村寅太郎と合流した。文久三年、攘夷親征の為孝明天皇の大和行幸が計画されると京都方広寺にて天誅組を結成する。首領に元侍従・中山忠光が就き吉村寅太郎が総裁、信吾は監察役に就任する。土佐脱藩浪士が多数参加し後の海援隊士・池内蔵太らも加わった。天誅組は京を出立し天領である吉野七万石の五條代官所を襲撃、代官の鈴木源内らを殺害し近くの桜井寺に本陣を構えた。しかし、公武合体派の巻き返しによる八月十八日の政変で大和行幸の延期が決まる。今更引っ込みがつかなくなった天誅組はそのまま戦いを続け朝敵とみなされ幕府による追討令が出されてしまう。賊軍となって孤立した天誅組は奮戦を続けるが劣勢に追い込まれ那須信吾は鷲家口で槍を振るって戦うが敵兵に狙撃され戦死する。享年三十五歳・・・養父である那須俊平は信吾が戦死した後、土佐藩父・山内容堂ら公武合体派の巻き返しで土佐勤王党が壊滅状態となり吉田東洋暗殺の追及が激しくなった。暗殺に那須家が関わっているとの噂が広がり周りの者達の説得もあって俊平は脱藩を決意、長州藩に匿われる。その後、他の志士達と共に京都に出て蛤御門の変では得意の槍をふるって戦うが鷹司邸前にて溝に足を取られたところを越前藩兵に首をとられたという。
posted by こん at 21:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 土佐藩 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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