2010年01月19日

武市半平太が愛した妻・富子

tomiko2.jpg武市富子は天保元年に土佐藩郷士・島村源次郎の長女として城下の新町田淵に生まれる。弟には後に土佐勤王党に加盟した島村寿太郎がおり、父・源次郎の弟で叔父の島村寿之助は土佐勤王党の参謀となった。また、従兄弟の島村外内、衛吉兄弟は土佐勤王党員、叔母(父・源次郎の妹)佐尾子は坂本龍馬の父・八平の実家・山本家へ嫁ぎ山本琢磨を生んだ(山本琢磨は江戸で龍馬や半平太に助けられた)為に龍馬とも遠縁になる。富子の実家・島村家は武市家と同じくらい裕福で富子の妹は上士の一之瀬源兵衛(留守居組)に嫁ぎ後に源兵衛は上士では三人目の土佐勤王党員になった。(土佐勤王党は武市、坂本龍馬ら下士や庄屋、足軽など身分の低い者らで構成)嘉永二年に十九歳で武市家へ嫁ぎ半平太の祖母と共に暮らし始めた。嘉永三年に半平太は仁井田吹井の屋敷を引き払い富子の実家の近く、高知城下新町田淵に移り住んだ。坂本龍馬がよく武市家へ遊びに来たとき尿意を催した龍馬ははだしで庭に駆け下り小便をした為、庭が臭くなるとたえず小言を言ったという逸話が残っている。また、振る舞い柿の話も残っており、坂本龍馬はお盆に乗せてある柿を無浅慮にかぶりつきヘタの渋い所も平気で平らげた、面白いので知らぬ顔をして見ていると次の柿からは自分で美味しい所だけ切り取って食べていた、中岡慎太郎は龍馬とは正反対で礼容を崩さず柿をすすめても「かたじけのうござる。」というだけで柿には一切手をつけなかった。吉村寅太郎に至ってはすすめられるまま手をつけおせいじを交えながら美味しそうに食べていたという人間観察評を語り残した。吉村寅太郎が子供が出来ない半平太を心配し富子を説得して実家に帰し、その間に容姿のいい女性を何人も女中として武市家へ送り込んだという。しかし、半平太は女中には一切手をつけず寅太郎の策略に気づき叱り飛ばしたという。半平太は誠実で武士の妻としての心得を説く半面、大変やさしくつけこまやかな心配りを見せた京都で公卿相手に活躍中でも半平太は絹地の着物を買うときには土佐にいる富子に手紙を送り何かに理由をつけて富子に弁明している。この状況から普段から半平太は富子の尻に敷かれ、家計は富子が握っていたことが解る。こんな幸せな生活も十四年で終わり、文久三年に武市半平太は投獄されると富子は足掛け三年もの間毎日三食欠かさず弁当を作り南会所の牢獄へ届け心の慰みとして花やホタルなども届けたり手紙や歌の交換を牢番を通して行われた。また、富子は半平太が投獄された日から畳では寝ず板の間に冬でも布団を使わず、夏は蚊帳をかけないという生活を続け夫と辛苦を共にしたという。慶応元年、夫・半平太の切腹が決まると富子は手縫いの着物と裃、乗り物などを届け弟の島村寿太郎と甥の小笠原保馬に介錯を頼み遺体が駕篭に乗って帰ってくると一年九ヶ月の再会となった。夫・半平太の切腹に伴い、士族籍剥奪と家禄打ち切りとなり家財も没収された富子は新町田淵の屋敷を手放し城下の長屋に引っ越した。裁縫と羽子板の押絵で生計を立て細々と暮らしたという。(富子の押絵は出来栄えがよく評判になり売れたという。)明治十年、ようやく特旨が出て夫・半平太の名誉が回復され、明治二十四年に武市半平太、坂本龍馬、中岡慎太郎、吉村寅太郎の四人に正四位が贈られが養子に迎えていた半太は日露戦争にとられ一人四畳半の長屋での生活が続いた。明治三十九年に宮内大臣を務めていた元土佐勤王党の田中光顕(当時の名は浜田辰弥)が富子を探し当て一家を遇した。田中は東京に出来た瑞山会の支援も受け戦争から帰国した半太に医師免許を取らせ故郷の梼原村で開業させた。富子と移動するとき田中は富子を馬に乗せ自分は大臣の身でありながら徒歩で付き添ったという。それほどまでに田中は武市半平太に傾倒し尊敬していたという。この頃になると富子の生活も幾分かは楽になりお酒も多少嗜むようになった、お酒が入ると富子は三味線を弾きよさこい節を唄ったという。大正六年に波乱の人生に幕を引いた。享年八十六歳・・  武市半平太・富子夫妻には実子が無く土佐勤王党の党員・岡甫助の子・永次郎を養子に迎えたが色々な事情から離縁となり紆余曲折の末、富子の弟(島村寿太郎とは別)の笑児の地縁によって明神睦衛という人が半太と改名して養子に入り武市家を継いだ。
posted by こん at 09:51| Comment(1) | TrackBack(0) | 土佐藩 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年01月08日

土佐勤王党創始者 武市瑞山

20090104215944.jpg武市瑞山は通称・武市半平太といい文政十二年、土佐藩郷士・武市正恒の長男として土佐国吹井村(現・高知市仁井田)に生まれる。半平太の代には郷士(下士)の中でも上士に準ずる白札郷士であった。半平太は九歳の時に叔母・菊の嫁ぎ先である土佐藩を代表する国学者の鹿持雅澄の開いた私塾・古義軒に入門、その後叔父門下の徳永千規について国学、南学を習う。剣術は一刀流の千頭伝四郎や麻田勘七に学び免許皆伝を授かる。西洋砲術の大家であった徳弘薫斎にも入門して坂本龍馬や龍馬の兄・権平と共に学ぶ。(徳弘には日本画も手ほどきを受けた。)弘化二年、父母の急を聞き城下より帰郷、母の看病を昼夜を問わず続けたという。しかし、その甲斐もなく父の死後、一月後に母の他界したため、家督を相続し白札郷士として出仕する。半平太は残された祖母を安心させる為に妻を娶ることにし、父母を看取った医師・楠瀬小枝の縁を通じて島村富子と結婚する。その後、吹井村の屋敷を閉め祖母と妻を連れて城下の新町田淵に移り住み剣術道場を開く。門弟には岡田以蔵らが居り、後の土佐勤王党の母体となる(剣技や指導力が藩庁に認められ各地に出張教授に出向き中岡慎太郎なども門下に加える)。その後、藩庁の許可を得て江戸に剣術修行に出て江戸三大道場の一つ鏡心明智流の桃井春蔵の門下となり塾頭も務める。半平太は江戸で長州藩の桂小五郎や高杉晋作と交流を持ち次第に尊皇攘夷思想に傾く。桃井道場の内弟子で半平太の妻・富子の遠縁の山本琢磨の紹介で坂本龍馬と江戸で再会、(山本琢磨は坂本龍馬とも親戚筋)山本琢磨が江戸で起こした強盗事件の後始末で龍馬と半平太は急速に親しくなったという(お互いあだ名で龍馬の背中の毛が多いことから「あざ」半平太の顎が張っていることから「あぎ」と呼び合った。)山本琢磨は酒に酔って道ですれ違った相手と喧嘩になり相手が置いていった時価十両の懐中時計を質屋に売り飛ばす事件が発覚、これが土佐藩庁に知れて切腹の危機に面したが半平太と龍馬がお金を出し合い弁償し琢磨を逃亡させた。)その後、江戸修行期限の一年が過ぎた半平太は再度修行延長を願い出るが祖母が体調不良と知るや直ぐに帰藩した。万延元年に祖母が八十九歳で他界し喪が明けると直ぐに藩庁に西国遊学の許可を得る。許される半平太は岡田以蔵や島村外内(富子の叔父の子)らを引き連れて備前・美作・長州・九州を歴訪し帰藩する。嘉永六年、ペリーの黒船が浦賀に来航し開国を迫ると大老の井伊直弼は朝廷が反対する日米通商条約を無断で調印しさらに将軍継承問題に関与していた土佐藩主山内容堂らを隠居謹慎処分とした。(安政の大獄)藩命で江戸で砲術修行をしていた大石弥太郎はこの問題に憤り、土佐の半平太に手紙を送った。半平太は直ぐに剣術修行の名目で藩の許しを得て江戸へ出て水戸藩士や長州藩士らと国事について相談、各藩の藩主を擁立して入京し尊王攘夷を朝廷の命で実行するように迫ることを誓って帰藩する。帰藩した半平太は同志を募り土佐勤王党を結成する。しかし、下士だけではどうすることも出来ないと悟り、上士の中でも尊王思想を持つ谷干城や福岡孝弟と面会し協力を仰いだ。土佐藩の参政・吉田東洋と面談し時世を説くが土佐藩と薩摩や長州藩とは立場が違うといって退けられる。半平太は長州藩の萩に坂本龍馬や吉村寅太郎を派遣し書簡のやり取りをした。そこで薩摩藩の島津久光が薩摩藩兵を率いて上洛することを聞き、そのことに便乗して挙兵しようとの企てに久坂玄瑞は決起に加わることを告げられる。吉村は佐幕派の土佐藩を脱藩して加わろうと決意し帰藩、半平太に共に脱藩を勧める。しかし半平太は土佐一藩挙げての勤皇を目指し単独の脱藩を拒絶、吉村にも藩に留まるように説得するが吉村の決意は固く、賛同する沢村惣之丞等と脱藩、数日後に土佐藩の限界を感じた坂本龍馬も脱藩し多くの土佐勤王党同志は離脱する。しかし、土佐一藩勤王の決意が固い半平太は起死回生の為、旧藩主・山内豊資を擁する一派を味方につけることに成功、土佐藩政から吉田東洋派を一掃する計画を企てる。半平太の命で吉田東洋暗殺計画が進められ那須信吾らが吉田東洋暗殺に成功、藩政は半平太の息のかかった保守派が人事を進め、吉田東洋派の後藤象二郎や福岡孝弟らが排除された。しかし所詮身分の低い下士では藩政を動かすことが出来ず朝廷の力を借りて藩主・豊範を入京させ土佐勤王党の目的は一応は達成した。藩主・豊範に従って入京した半平太は他藩応接役となり多くの勤皇志士たちと交わる一方で開国論者や公武合体派を「天誅」という暗殺行為に関与した。(半平太は吉田東洋を暗殺することによって土佐藩政を牛耳ることが出来た為、暗殺を最高の手段と思い込み岡田以蔵たちを只の暗殺道具としか見なかった。)この頃、朝廷はなかなか攘夷を決行しない幕府に業を煮やし三条実美を督促勅使とし副勅使に姉小路公知を東下させることにした。土佐藩主・豊範は勅使警護として江戸を目指したが土佐勤王党もこれに随行、半平太も「中柳川左門」という名で姉小路に従った。江戸では藩父・山内容堂と七度程面会し帰京、半平太は下士では異例の留守居組に昇進したが、藩父・容堂の謹慎がとけ京都会議準備の為に入京すると状況が一変する。京都で横行する「天誅」など過激な活動をする軽格の藩士達に政治活動自粛を申し付けた。半平太は危機感を覚え藩父・容堂に面会して土佐勤王党加盟者百九十二名の血盟書を提出して勤王党の決意を熱く訴えたが藩父・容堂は土佐へ帰国し半平太も帰国するように命じる。帰藩前に容堂が政治活動自粛令を出した後に土佐勤王党幹部の平井収二郎(加尾の兄)、間崎哲馬、弘瀬健太は土佐藩政改革の実現の為、青蓮院宮に令旨を出してもらうように働きかけた。このことが容堂の耳の入り、平井収二郎は役を解かれ土佐に護送される。半平太は容堂に助命を願い出るが聞き入れられず勤王党幹部三人に切腹を命じ、更に勤王党に行動の自重を命じた。その頃、京都では会津藩、薩摩藩ら公武合体派の八月十八日の政変により長州藩と尊攘派公卿を追放、公卿・中山忠光を盟主とし多くの土佐浪士が参加した天誅組に討伐令が出た。朝廷中心の政治を目指し倒幕に加わった土佐勤王党の吉村寅太郎も朝敵とみなされ戦死してしまう。尊皇攘夷派が力を失う一方で公武合体派は京で尊攘過激派の追捕令が出された為、土佐藩も土佐勤王党への弾圧が始まる。文久三年、藩父・山内容堂は吉田東洋暗殺の嫌疑で土佐勤王党同志を次々と捕縛し半平太も投獄される。しかし半平太は下士ながら留守居役で上士と同じ扱いを受け拷問されることはなかったが、同志達が投獄された山田獄舎は劣悪な環境のうえ暗殺の自白を迫る厳しい拷問が繰り返された。勤王党同志は硬く口を閉ざし拷問に耐えたが土佐藩は吉田東洋と関係の深い後藤象二郎、板垣退助らを加え厳しさを増した。元治元年、数々の暗殺実行に手を染めた岡田以蔵が京都で捕縛され土佐藩に護送されると厳しい拷問に耐えられず自供を始めた。半平太はまだ捕まっていない同志を守る為に南会所の牢内から岡田以蔵を毒殺するように指令を出す。以蔵の家族の反対で計画は中断したが、半平太の実弟・田内衛吉が拷問に耐えられずこの毒薬を飲んで自害した。また、半平太の妻・富子の従兄弟の島村衛吉が拷問の末に獄死、半平太は大変なショックを受ける。慶応元年、自供無しで結審し岡田以蔵は打ち首獄門、多くの同志も斬首となったが半平太は「徒党を組んで人心を煽動し主君に対する不敬行為を働いた」という罪状で上士並みの切腹と決まった。慶応元年五月、半平太は体を清め特別な計らいとして裃着用を認められた。介錯には妻・富子の実弟・島村寿太郎と甥の小笠原保馬が務めた。半平太は今まで誰もやったことがない三文字の切腹で武士の気概を見せ絶命した。享年三十六歳・・・・  維新後木戸孝允(桂小五郎)が酒席で山内容堂に「なぜ武市瑞山を斬ったのか」となじったことがあったが容堂は「藩令に従ったまで」と言ってうつむいたまま黙ったという。また山内容堂は酒に酔うと「武市すまぬ」と独り言をよく言ったとも伝えられている。歴史に「もしも」が許されるならもし武市半平太や坂本龍馬、中岡慎太郎、吉村寅太郎ら多くの下士たちが維新後も生き続けていたら明治政府は薩長の門閥政治ではなく土佐藩から実力のある多くの政治家を排出できたはずである。
posted by こん at 09:37| Comment(1) | TrackBack(0) | 土佐藩 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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