2009年12月12日

坂の上の雲 秋山好古と妻

yosihuru_p0.jpg秋山好古は安政六年、伊予松山藩士。秋山久敬の三男として生まれ、幼名を信三郎という。秋山家は徒士(かち)という士分ではあるが足軽(士分ではない)より一つだけ格上の低い身分であった。弟に連合艦隊参謀の秋山真之がいる。好古は松山では正岡子規の叔父・加藤恒忠と並ぶ秀才と言われた。慶応二年、八歳のときに藩校・明教館に入学するが家が貧しく生活費を稼ぐ為に学校へは通わず銭湯の風呂焚きをしながら独学で勉強したと言われる。(松山藩は幕末には幕府側に立って長州征伐にも積極的に参加した為、戊辰戦争では隣の土佐藩に攻められ莫大な賠償金を払わされた。その為に藩士は勿論、好古の父・平五郎久敬ら徒士、足軽などは貧窮を極めた。)明治八年、十七歳のときにただで勉強できる学校が出来たと聞いた好古は大坂に出て臨時教師をしながら年を偽って師範学校の入学試験を受け合格する。(当時、明治新政府は教育を重視奨励し多くの学校を設立する。しかし、教師の数が追いつかず旧士族を教師として雇おう考えて大坂に教師養成学校と言える師範学校を設立した。だが十九歳からの入学であった為、好古は年齢を偽って入学を果たした。)創設したばかりの師範学校は卒業規定はまだ設けられておらず学力によって卒業が認められたので好古は夢中で勉学に励み一年で卒業し同郷の先輩・和久正辰が主事を務めていた愛知県立名古屋師範学校の付属小学校に赴任した。和久もまた松山藩の秀才と言われた人物だが伊予松山藩は新政府の薩長土藩の敵であったため賊軍扱いを受けていくら優秀でも出世の道はなかった。新政府は明治八年に中央軍の強化養成を目的とした陸軍士官学校を東京に創設した。この学校は能力によっては薩長出身者並みに出世が出来、しかも学費はただ、衣食住すべてが支給される上に給料も貰えると聞いた和久恒忠は自分は三十歳前で年齢的に無理だがまだ若い好古にはいい条件だと説得、好古も東京行きを決意した。明治十年、上京した好古は陸軍士官学校を受験しみごと合格、歩兵・騎兵・砲兵・工兵の中から騎兵を選択した。理由は砲兵と工兵は学ぶことが多く、卒業には四年かかるが歩兵と騎兵は三年で卒業でき少尉になって給料も増えるからだったと言う。また、好古は日本人離れした美男子で背が高く、手足が長い為に馬を載る時に馬の胴をしっかりと閉めることが出来るので上官に勧められたとも云われている。明治二十一年に陸軍士官学校を卒業した好古は少尉に任官され東京鎮台騎兵第一大隊の小隊長となった。(後の制度改革で師団となる。)この時に勤務地に近い旧旗本・佐久間家の離れを借り下宿した。後に好古の妻となる多美は佐久間家のお嬢様であった。しかし、当時は身分制度がまだ根強く残り佐久間家が将軍の直属の臣に対し好古は伊予松山藩の家臣家柄であった為、将軍家から見れば陪臣の身分であった。明治十六年に騎兵中尉に任官し陸軍大学へ入学、日本陸軍に大きな影響を与えたと云われるドイツのヘッケルの教育を受ける。(日本陸軍は士官学校時代フランス式陸軍を学んでいたが、大学設立に当たり適任者が居らず、当時世界の最先端を行っているドイツ陸軍からヘッケルを招いた。)明治十九年、大学を卒業した好古は東京鎮台参謀として騎兵大尉に任官し翌年に旧松山藩主・久松定謨(さだこと)のフランス留学に随行するよう指名される。しかし、日本陸軍はドイツ式へと移行しているときでもあり自分がフランス留学から帰国した時に孤立してしまうことを恐れたが元殿様の指名を無下に断れず自費でフランス留学を決意する。しかし、留学中のサンシール士官学校で学んだフランス式馬術の優秀さに驚き、見た目を重視するドイツ式馬術の欠点が良く見えた。明治二十三年にフランス視察に来た陸軍中将兼内務大臣の山県有朋に馬術のみはフランス式を採用するように好古は進言し山県は好古に一任した。明治二十四年帰国した好古は騎兵第一大隊の中隊長になる。その後まもなく陸軍士官学校と幼稚舎の馬術教官を務め、翌年には「騎兵監」の副官となり陸軍少佐に昇進する。フランス留学中に父・平五郎久敬が死去した為、母の貞子を東京に呼び寄せ四谷の信濃町に一軒家を構える。「最後の古武士」と言われた好古は私生活では質素で廻りにことには無頓着であった。あるときに家のお金が紛失する出来事があった、犯人は女中であることがわかると「原因は家のことを取り仕切る主婦がいないことにある」と母や友人が結婚を勧めるが好古は一向に結婚する意志を示さない。この話を聞いた上京した当時下宿していた旧旗本の佐久間正節は「秋山好古は実に聡明で義理堅い男」と惚れ込んでいたこともあって一人娘の多美(下宿当時十歳であったがこの時、二十四歳になっていた。)との縁談が進んだ。はじめは結婚する気がなかった好古も多美を大変気に入った母・貞の進めもあって「母がよければそれでいい」といって明治二十六年に結婚し騎兵第一大隊長になる。翌年には日清戦争が勃発し騎兵第一大隊長・陸軍騎兵中佐として従軍し帰国後は陸軍乗馬学校校長、翌年に騎兵大佐に昇進して陸軍騎兵実施学校長に就任、翌年に陸軍獣医学校校長を兼務する。明治三十三年、第五師団兵站監に異動となり義和団事変制圧の為、出征し軍司令官山根武亮少将の清国駐屯軍参謀長に就任、その後司令官に異動。明治三十六年に騎兵第一旅団長に就任し第二軍として日露戦争に出征する。(編成は旅団だが実際は歩兵と砲兵を編入した支隊であって支隊本体と他三支隊からなり秋山支隊と呼ばれた。)緒戦から偵察や側面援護として活躍、ロシア最強といわれたコサック騎兵の突撃を阻止した。特に沙河会戦の後、膠着状態だったが黒溝台の会戦では日本軍の最左翼の広範囲を守備していた僅か八千の秋山支隊にロシア第二軍全軍十万の兵が攻撃を加える。数の上では圧倒的に不利だった秋山支隊だが巧みな戦術でこの地を死守し「日露戦争最大の危機」と言われたこの戦いを勝利に導いた。その後、秋山好古は「日本騎兵の父」と讃えられた。天奉会戦後の翌年に乃木希典第三軍司令官より感状を受ける。その後、明治四十二年に陸軍中将に昇進、大正四年に近衛師団長となり翌年に陸軍大将に昇る。大正九年に陸軍教育総監兼軍事参事官となり日本陸軍最高幹部の一人に加えられた。ついに秋山好古は幕末江戸幕府側についた賊軍の藩士の子として明治維新後の差別を受けながら薩長出身者以上の出世を果たし特旨をもって従二位を叙位された。(元帥位に推す話もあったがこれは固辞した。)翌年にはすべての栄誉を捨てて軍を離れ好古の強い希望により故郷の松山に帰り北予中学(現・松山北高校)の校長に就任した。(退役陸軍大将としては異例の格下げ人事を希望した。)昭和五年に校長を辞任した後若い頃からの酒好きにより糖尿病が悪化、心筋梗塞を起こして東京陸軍軍医学校にて永眠する。享年七十二歳・・妻の多美は好古に嫁いでからの三十五年間、軍務の為にほとんど家に帰らなかった夫を支え、姑の貞に自慢の嫁と言わしめ家庭を守り続けたという。


日常から離れた極上の休日【JTB】露天風呂付客室
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2009年12月04日

海舟や龍馬からも慕われた幕臣 大久保一翁

0054_l.jpg大久保一翁は文化十四年、西ノ丸留守居役旗本(五百石)大久保忠向の子として生まれる。初名は忠正後に忠寛と改め通称は三市郎という。天保元年に十一代将軍家斉の小納戸として初出仕、その後小姓となる。天保八年に新将軍家慶の小納戸となり翌年に家督を継いだ。嘉永六年一翁が三十七歳の時に浦賀にペリーが来航後、老中首座の阿部正弘の抜擢により目付兼海防掛に任命される。この時期、勝海舟が提出した海防意見書に興味を持ち、老中首座の阿部正弘に紹介して海舟の出世の道を開いた。また、訪ねてきた海舟の愛弟子の坂本龍馬に大政奉還や諸侯会議制の持論を話し、後の「船中八策」のアイデアを与えたと云われている。安政三年、貿易取調御用、蕃書調所頭取を兼任して講武所の創設に尽力する。翌年、長崎奉行(貿易が許されている唯一の町である長崎では商人たちによる賄賂が横行しており、長崎奉行を一年務めれば蔵が幾つも建つといわれるくらい美味しい職であった。)に任命されたが一翁は「長崎奉行は数千石の裕福な旗本なら務まるが、私のような五百石の小身では賄賂の餌食になるだけだ。」と言って頑なに拒んだ為に駿府奉行に左遷されてしまう。安政五年、老中首座の阿部正弘が死去した後大老に就任した井伊直弼によって禁裏付に翌年に京都町奉行となる。井伊は大久保の剛直な性格を利用して京都に跋扈する志士たちを一掃しようと考えた。しかし、一翁は安政の大獄には否定的であり、京で志士たちを取締まる捕吏の横暴を赦さずこれを処罰した。井伊は一翁の安政の大獄に消極的姿勢を見せた為に京都町奉行を罷免し西ノ丸留守居に左遷、翌年にはこれも罷免して旗本寄合に降格される。文久元年、桜田門外で井伊直弼が暗殺されると幕府は情勢不安に対応する為、一翁を再び呼び戻し蕃書調所頭取に再任、文久三年に大目付兼外国奉行に就任する。この時期に松平春嶽や横井小楠等と面談し「もしも朝廷が攘夷断行を撤廃しないのなら徳川幕府は大政を奉還し旧領の駿河・遠江・三河の三州に帰り諸侯による議会制にするべきと自説を説いた。(実際に大政奉還する五年も前のこと)この話を伝え聞いた将軍・家茂の後見人をしていた徳川慶喜は激怒して大久保一翁を罷免し講武所奉行に左遷された。その後、勘定奉行に任命されるがここでも老中と衝突して僅か五日で罷免となり旗本寄合となる。大久保は四十九歳で早々に隠居し、一翁と名乗り再三の出仕命令を拒んだ。第二次長州征伐が始まるがなかなか兵の士気が上がらず、困り果てた老中たちは意見を聞くために大久保一翁を大坂に呼び出した。一翁は長州征伐の無意味さを説き、兵を引くことを提案したがこれを却下され家茂亡き後将軍職に就いた慶喜は京都にあって一人息巻いていた。大久保一翁は慶喜の凡庸さに失望し江戸へ戻る。鳥羽・伏見の戦いが勃発し、戊辰戦争が始まると徳川軍は賊軍のレッテルを貼られ将軍慶喜は慌てて大阪城から撤退、多くの幕府軍兵士を残したまま江戸へ逃げ帰る。幕府瓦解後の困難を乗り切る為、大久保一翁は若年寄、会計総裁に選出され陸軍総裁となった勝海舟と共に恭順謹慎している将軍慶喜の意を受けて徳川家救済に奔走する。またこの時期、朝廷からも静寛院宮(和宮)、薩摩藩から天璋院(篤姫)の身の安全を頼まれたという。大久保一翁は幕府からも朝廷からも信頼されていたといえる。一翁は江戸城無血開城に向けて勝海舟と共に尽力、勝と山岡鉄舟が実行部隊として東征総督府参謀の西郷隆盛と会談する一方で一翁は江戸城にあって徹底抗戦を叫ぶ幕府軍残党を説得し、特に新撰組を甲陽鎮撫隊として軍資金を与えて江戸から追い出すことに成功した。また、新政府軍に武器を供給していたイギリスの公使パークスを説得(もしも内戦によって江戸が火の海になったらイギリス人が居留している横浜にも被害が出ると説得し、恭順している者を死罪に処するは道理に反すると言って新政府との仲介を頼んだ)パークスが江戸総攻撃に反対していると聞いた西郷は勝海舟と二度目の交渉を行い江戸城無血開城が決定し、一翁は東征総督府から江戸の鎮撫取締りを命ぜられる。後年、大久保一翁と勝海舟と山岡鉄舟は江戸幕府の三本柱と讃えられた。維新後は徳川宗家を継いだ徳川家達が駿府七十万石に封ぜられると一翁は家達の補佐をして藩政を取り版籍奉還後には静岡藩権大参事となる。明治四年に廃藩置県が行われ静岡県参事に就任、翌年には文部省二等出仕、東京府知事になり東京会議所の設立を図るが旧幕臣による自治は認められないと大久保利通に反対され潰されてしまう。また、江戸時代からある寺子屋の存続を巡って文部省と対立し知事を退任。その後、教部少輔、明治十年に元老院議官に任ぜられる。明治二十年に子爵を授けられ翌年に七十二歳の生涯を閉じる。徳川家康の三河以来の武将であった大久保一翁の先祖は戦において常に殿(しんがりは軍の最後尾に位置し常に敵と接し前方の見方を無事に逃がす役を担ったもっとも危険な場所)を務め武勇を誇った。時代が下り江戸幕府崩壊の折、最後まで徳川家を守り幕府の幕を引いた一翁の役割もしんがりのような大久保家の因縁かも知れない。
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2009年12月03日

尊皇攘夷に一生を捧げた公卿 中山忠光

acd0908200739002-p1.jpg中山忠光は弘化二年、権大納言・中山忠能の七男として生まれる。姉の慶子が宮中に出仕し、後の明治天皇である祐宮(さちのみや)を生んだことから明治天皇の叔父に当たる。姉・慶子は中山家の敷地内の御産所で祐宮(明治天皇)を生み五歳まで中山家で育てられた為、叔父の忠光の影響を受けたといわれる。(特に明治天皇の相撲好きは忠光に影響されたらしい。)忠光は十四歳で宮中に出仕し従五位侍従に叙せられる。文久二年頃から血気盛んな忠光は長州や土佐の志士たちと盛んに交わり、尊王攘夷過激派の公家として台頭する。(この時期、和宮降嫁を推進した廷臣を暗殺する計画を土佐勤王党首・武市半平太に持ちかけたが父・忠能の反対にあって断念した。)文久三年、朝廷に国事寄人が新設されたときに忠光十九歳で加えられる。同年三月に孝明天皇は将軍・家茂や諸侯を従えて攘夷祈願の為、賀茂神社に行幸した際に忠光は騎馬にて従った。しかしその後、突然京都を脱して長州藩に身を投じ、下関の白石正一郎邸に身を寄せる。官位を返上して森俊斎と改名して尊攘運動に奔走、久坂玄瑞率いる光明寺党の党首となって下関の外国船砲撃に参加したり、また長州藩士を率いて久留米藩にいって当時投獄中の真木和泉等尊攘派の藩士を釈放させるなどに尽力する。その後、忠光は京都の情勢不穏を聞き帰洛し尊攘派のリーダー格であった三条実美等の働きによって孝明天皇の大和行幸の詔が下されると土佐脱藩浪士の吉村寅太郎らに担がれて天誅組盟主となる。攘夷親征の奉迎として大和五条代官所を襲撃し代官の鈴木源内を誅戮して挙兵する。しかし、公武合体派は会津藩や薩摩藩とクーデターを起こし巻き返す。(八月十八日の政変)三条実美等七卿は長州藩士と共に長州へ落ち延びる。天皇の大和行幸は中止され天誅組は幕府追討軍(彦根、藤堂、紀州藩で編制)に追い詰められ吉野山で抗戦するが吉村寅太郎らは戦死し、忠光は数名の側近と共に大坂へ脱出、船荷に隠れて再び長州へ落ち延びる。長州藩では逆賊のお尋ね者となった忠光を匿いきれず支藩の長府藩に預けたが蛤御門の変に敗れ、第一次長州征伐が始まると長州藩の恭順派(俗論党)が台頭し尊攘派藩士は切腹や追放となる。長府藩では血気盛んな忠光をもてあまし下関・赤間町の商人・恩地与兵衛の娘・登美を側女として落ち着かせようと試みるが何度も脱走を計画して手を焼いた。元治元年、最後の潜伏先である田耕村の大田親右衛門宅にて病に伏していた忠光に庄屋の山田幸八がやってきて「幕吏が迫ってますのでお逃げください。」といって誘い出し四人の長府藩士の手で絞殺される。長府藩士は田耕村から遺体を長持に入れて運び出し下関に向かったが途中で夜が明け仕方なく綾羅木の浜に埋葬する。(明治維新後ここに山中神社を建立した。)長府藩では中山忠光は病死したと届けたが維新後、長府藩が差し向けた刺客によって暗殺されたと発覚、維新の功労者に爵位が授けられた際に長州藩主が公爵を与えられ、当然支藩である長府藩主には伯爵が与えられると思われていたが子爵に留められた。側近が明治天皇に理由をたずねると「長府は中山を殺したから」と仰せられ長府藩を嫌ったという。忠光が弱冠二十歳で暗殺された後、側女の恩地登美が女児・仲子を出産、正室の富子に子供がなかった為、富子は仲子を引取り大事に育てた。維新後、仲子は嵯峨公勝婦人となる。時代は下って満州国皇帝・愛新覚羅溥儀の弟・溥傑の妻・浩は嵯峨家(正親町三条家)出身で仲子の孫に当たる。したがって中山忠光は曽祖父になる。(中山神社内に愛新覚羅社があり溥傑と浩と天城峠で謎の死を遂げた娘の彗生が分骨して祀られている。)余談だが忠光をだまして誘い出し暗殺に協力した田中幸八の子孫の多くは発狂して家は断絶、近隣の住民は天罰が下ったと恐れたという。
posted by こん at 11:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 朝廷・皇族 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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