2009年11月16日

坂本龍馬の初恋の人 平井加尾

平井加尾は天保九年に西土佐国土佐郡井口村にて土佐郷士・平井伝八(直澄)の娘として生まれる。兄は龍馬と同い年で土佐勤王党の同志・平井収二郎。加尾は才色兼備の誉れ高く、龍馬の姉・乙女とは同じ一弦琴の師匠について習っていた関係で親しく龍馬の幼馴染であった。安政六年に前藩主・山内容堂の妹・友姫が京都の公家・三条実美の兄の三条公睦へ嫁する時に御付の奥女中として四年の間三条家に使える。この期間、土佐藩から京に上ってくる志士たちの面倒を良く見た姉御肌で、龍馬は姉・乙女のような姉御肌で勝気な女性に憧れていた。龍馬は脱藩の半年前に京の加尾に手紙を送った。内容は「先づ先づ御無事とぞんじ上候。天下の時勢切迫致し候に付、
 一、高マチ袴
 一、ブツサキ羽織
 一、宗十郎頭巾
外に細き大小一腰各々一ツ、御用意あり度存上候。
 九月十三日
  坂本龍馬
 平井かほどの 」と書かれているが真意は不明で解釈によっては加尾に男装させて一緒に国事の為奔走しようともとれるし京都は暗殺が横行し不逞浪士が闊歩する危ないところだから男装して外出するようにとの気遣いの手紙なのか今となっては解らない。加尾は手紙どうり一式を用意、刀は国もとの兄に送ってもらった。しかし、その後龍馬は姿を見せず加尾は兄の収二郎に相談する。収二郎は龍馬に誘われた加尾が勤王活動に参加することを危惧して、「坂本龍馬が昨日24日脱藩した。きっとそちらに行くと思うが、たとえ龍馬からどのような事を相談されても、決して承知してはならない。もとより龍馬は人物ではあるが、書物を読まないので時には間違えることもある」との内容の手紙を書き送った。だが、収二郎自身も土佐勤王党の幹部として調停の権力を利用して土佐藩主を尊王思想に導こうとした事に山内容堂が激怒、武市半平太と共に切腹を仰せつかる。兄の切腹後、龍馬は姉・乙女に加尾に気遣いする書状を送ったとされるが、ふたりは二度と会うことはなかったという。その後、龍馬は江戸へ剣術修行に出て千葉周作の弟・定吉の弟子となる。龍馬はその娘・佐那と恋仲となり姉・乙女に「佐那は剣術も良く出来、馬にも乗り、顔かたちは以前の恋人の加尾よりも少し良く」惚気の様な手紙を書き送った。慶応二年に加尾は元土佐勤王党幹部だった四歳年下の西尾直次郎志澄と結婚、平井家の婿に迎えた。一女をもうけ、明治十一年に夫婦揃って西山家に復籍した。その後、娘に婿をとらせて平井家の再興を果たし明治四十二年に死去した。享年七十二歳・・・加尾と龍馬の初恋はかなわなかったが龍馬は加尾に「嵐山夕べ淋しく鳴る鐘に こぼれそめけり木々のもみじ葉」という一首を贈ったといわれている。
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お龍の妹・君枝と結婚した菅野覚兵衛(千屋寅之助)

sugano201-1.jpg菅野覚兵衛は天保十三年に土佐国安芸郡和食村の庄屋・千屋民五郎の三男・千屋寅之助として生まれる。文久元年に寅之助は国事を憂い従兄弟の千屋菊次郎、金策兄弟と共に土佐勤皇党に加盟、文久二年に山内容堂警護の為に五十人組が組織されると寅之助は中岡慎太郎の隊に加わり上京する。江戸で寅之助は高松太郎の紹介で坂本龍馬と知り合い、竜馬の勧めで勝海舟の塾に入門、海舟の神戸海軍操練所で航海術を修行して龍馬と行動を共にする。文久三年に土佐藩では勤王党の弾圧が始まり寅之助は仲間と相談の上脱藩する。禁門の変の影響で海舟が罷免されると神戸海軍操練所は閉鎖され、寅之助は薩摩藩の庇護を受けながら長崎で亀山社中の創立に加わり以後、坂本龍馬の信頼を得る。慶応二年、幕府が第二次長州征伐を始めると龍馬は下関海戦に長州側として参戦、寅之助にユニオン号の船将に任命され小倉藩門司陣地攻撃に戦果を挙げた。慶応三年に京都において龍馬が暗殺されると長崎で龍馬の生前の希望どうりお龍の妹・君枝と結婚(仲人は海援隊士・渡辺剛八が務めたという。)戊辰戦争が始まると寅之助は畿内にいた海援隊士等(長岡謙吉たち)と袂を分かち海援隊は二分する。寅之助は長崎在住の海援隊士たちと長崎奉行所をを占拠、逃亡した長崎奉行に変わって長崎の治安を維持する。長崎海援隊は長崎会議所を設けて政務を執り、寅之助は上京して新政府に事の次第を上申、それに伴って沢宣嘉を九州鎮撫総督として派遣、長崎会議所の業務を引き継いだ。寅之助たち長崎残留海援隊は新政府軍に属し振遠隊の幹部となり奥羽地方の内戦に参戦する。維新後は親友の白峰駿馬と共にアメリカへ留学、ニュージャージー州のラトガース大学など六年間留学などした後帰国。その後、寅之助は海軍に出仕して艦政局運輸課長や横須賀鎮守府建築部長を歴任、海軍少佐に任ぜられたが明治十年に西南戦争直前に鹿児島磯の造船所に赴任、鹿児島私学生暴発のきっかけになった武器庫襲撃事件にかかわった。(寅之助は火薬を奪われないように水に沈めて使い物にならなくした)このことが後の海軍内での評価に影響し出世の道が閉ざされたという。その後、明治十八年に海軍を辞職し龍馬の夢でもあった北国開拓に力を入れる。先ず、福島県安積郡富久村に入植し開拓事業に参加する。しかし、厳しい環境下で二度の失敗を繰り返し志し半ばで挫折、病に倒れ明治二十六年に享年五十二歳で死去・・・千屋寅之助は菅野覚兵衛の名で幕末を走りぬけ、坂本龍馬亡き後龍馬の妻(寅之助には義姉)お龍の行く末を心配し土佐の坂本家へ預けるが龍馬の姉の乙女とは気が合わず家出、寅之助の実家の和食村千屋家で半年間面倒を見て、その後も横須賀に腰を落ち着けた後も世話を焼き続けたという。(映画「龍馬の妻と夫と愛人」のモデルが寅之助だといわれている。)      


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2009年11月15日

海援隊で「赤つら馬之助」のあだ名を持つ 新宮馬之助

shingu1.jpg新宮馬之助は天保七年に土佐国香美郡新宮村の郷士・寺内信七(鋳掛屋を生業にしていたとの説有り)の次男として生まれる。馬之助は幼い時から絵を書くのが好きで嘉永六年十六歳の時に高知城下に出て叔母の家業(布屋という旅館と焼継業を兼業していた)を手伝いながら河田小龍に入門し学問と絵を習った。(ここで近藤長次郎と出会う)後に河田小龍宅に寄宿して勉学に励んだという。また、この時期に江戸から剣術修行を終え帰国した坂本龍馬と小龍宅にて出会う)その後、馬之助は「焼継修行」の目的で藩に留学の許可をもらい江戸へ出発する。文久三年に江戸で坂本龍馬と再会した馬之助は龍馬の勧めで近藤長次郎らと勝海舟の弟子となり元治元年に神戸海軍操練所にて航海術を学んだ。この頃、土佐藩では武市半平太が投獄され土佐勤王党は弾圧を受けた。この為に神戸海軍操練所にて勉強中の土佐藩士たちに帰藩命令が下された、しかし馬之助や高松太郎らは藩を脱して勝海舟の仮家来の身分で修行に励んだという。だが、この跡直ぐに海舟に帰京命令が出て神戸海軍操練所が閉鎖された為に馬之助らは長崎へと渡り薩摩藩の庇護を受けたという。亀山社中が結成されると馬之助は寺内信左衛門の名でいち早く参加し以後坂本龍馬と行動を共にした。慶応二年、坂本龍馬が薩長同盟締結に向けて動き始めると馬之助らは薩摩藩から通行手形を出してもらい京都の二本松薩摩藩邸に無事到着、長州の桂小五郎と薩摩の西郷隆盛の会談には龍馬と共に馬之助も立ち会ったという。新宮馬之助は龍馬にたいそう気に入られ色白で美男子ながら上気すると直ぐに顔が真っ赤になることから「赤づら馬之助」とあだ名をつけられ仲間からも親しまれたといわれている。また、龍馬の妻・楢崎龍の話によると馬之助は絵が得意で女性のヌードを良く描いていたという。維新後は名を新宮駟と改め蝦夷地の開拓や浦賀の海兵団に従事した。その後、海軍大尉まで昇るが辞職して妻の実家がある長崎に移住する。しかし、明治十九年に長崎で当時流行したコレラに罹り死去したともアメリカに渡って死んだとも云われているが詳細は不明。享年五十歳・・・FX、始めるなら今がチャンス!
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2009年11月14日

吉岡謙吉と共に海援隊の双璧 石田英吉

ishida9.jpg石田英吉は天保十年に土佐国安芸郡中山村中ノ川に藩医・伊吹泰次の長男・伊吹慶良後に周吉として生まれる。幼い時から頭脳明晰で安田の高松順蔵(坂本龍馬の姉・千鶴の夫)に学問を習う。嘉永七年に藩校田野学館に入学しさらに文武に励んだ。英吉は父の跡を継ぐため医学を志し、文久元年に大坂の適塾で緒方洪庵の門下生となる。文久二年に上京して志士たちと交わり翌年に吉村寅太郎に心酔して脱藩、天誅組に加わって大和挙兵に参陣し伍長兼薬役となる。天の川本陣では木製の大砲を製造して高取城の砲撃で戦功を立てる。しかし、多勢に無勢で敗走し再起を図って長州に逃げ延びる。この時に名前を伊吹周吉から「石田栄吉」と改名したという。栄吉は長州三田尻で浪士部隊の忠勇組に参加して元治元年に真木和泉の元で京都市中に進軍し蛤御門の変に参戦する。しかし、戦況が不利になり負傷した為、同郷の中岡慎太郎と共に再び長州三田尻へ敗走する。慶応元年、高杉晋作の奇兵隊に参加して幕府による長州征伐では各地を転戦する。下関海戦では坂本龍馬に請われてユニオン号の砲手長として指揮を執り船将の菅野覚兵衛と協力して小倉藩門司陣地を砲撃して大きな戦果を挙げる。その後、坂本龍馬の考えに共感し奇兵隊を脱退して幼馴染の高松太郎と共に亀山社中創立に参加する。慶応三年、亀山社中は数々の不幸が続き経営不振に陥るが龍馬は土佐藩の援助を受け再建を果たす。しかし、亀山社中は土佐海援隊となって土佐藩の管理下に入ることになった。だが、龍馬はしたたかに他藩との貿易や土佐藩の武器購入の際に幾らかの利益を乗せて藩に請求して海援隊の儲けとした。この時、石田栄吉は陸奥陽之助と共に貿易や隊の事務に尽力した。龍馬が京都近江屋で暗殺されると吉岡謙吉に従って後進の指導に尽力した。鳥羽伏見の戦いが勃発すると吉岡謙吉の指揮下、瀬戸内海諸島・小豆島の鎮撫に尽力するが、途中で石田栄吉は吉岡と袂を分かち離脱してしまう。その後、栄吉は長崎に出て長崎在住海援隊幹部の菅野覚兵衛らと合流し長崎奉行河津伊豆守が夜陰に紛れて密かに脱走し主を無くした奉行所に集結占領した。九州鎮撫総督・沢宣嘉の指揮の下この占領隊は勤皇軍・振遠隊として編成され石田栄吉はその幹部となる。(海援隊は吉岡謙吉が隊長となるが瀬戸内海小豆島にいる吉岡派と長崎在住の菅野覚兵衛等の隊に分裂しその後土佐藩の命令で解散させられる。海援隊の業務は後藤象二郎配下の岩崎弥太郎の土佐商会が引き継ぎ九十九商会となり明治以後三菱商会として海運業は発達していった。)石田栄吉ら振遠隊は下関からアメリカ船に乗って奥羽戦線の援軍として秋田に上陸、栄吉は御用掛りに任命され奥羽鎮撫総督府の参謀として庄内藩陣地攻略戦などに各地を転戦して活躍する。明治維新後は新政府に出仕して明治二年に長崎県小参事、明治八年には秋田県権県令、十六年に長崎県令、明治二十一年に千葉県知事に就任する。明治二十三年に海援隊時代の愛弟子・陸奥陽之助(宗光)が農商務大臣に就任すると陸奥宗光に請われてその次官を務め貴族院議員に勅撰され男爵を授けられ華族に列せられる。明治二十五年に高知県知事に任命され明治三十年まで務める。明治三十四年に京都にて永眠、享年六十三歳・・・
posted by こん at 16:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 海援隊 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年11月13日

ビールを片手に微笑む侍 立石斧次郎(長野桂次郎)

beer400.jpg立石斧次郎は天保十四年に江戸小石川の小日向馬場東横町(現・新宿区東五軒町)に直参旗本の小花和度正(後に日光奉行)と母・クル(直参小姓組・米田藤太郎の娘)の次男として生まれた。しかし、病弱で今にも死にそうだったので出生届けを幕府に出していなかった。斧次郎が三歳の頃、病弱を理由に下総松戸の豪農・横尾金蔵方に里子に出され横尾為八と呼ばれた。嘉永六年頃、為八は母の実家米田家へ引き取られ米田猪一郎の養子となる。(実際は小花和家の祖母が養育したという)嘉永七年頃(為八十一歳)米田家の叔父で幕府のオランダ語通弁の立石得十郎のもとで語学を学んだ。安政二年には下田奉行所に所属した立石得十郎は家族と共に下田に住んだので為八は住み込みでオランダ語を本格的に習った。下田の森山栄之助から英語を学び、安政四年には幕府の許可を得てアメリカ総領事ハリスや通訳のヒュースケンから英語を教わった。翌年にハリスが下田から江戸へ移住したのを機に為八は長崎へ英語の勉強に出る。長崎には姉の寿賀とその夫・加藤金四郎(長崎奉行所組頭)が居り為八の面倒を見てくれたという。幕府が長崎に英語伝習所を設立し英国人のフレッチェル等が教授を勤めて英語を教えていたので為八はここへ入学する。(しかし、為八の英語のレベルが進んでいて生徒というより教授の助手を務めている)為八が十五歳の頃に幕府は外国の圧力に屈し長崎と神奈川、函館の三港を開き貿易を許した。為八は長崎から呼び戻され神奈川の運上所(港の税関)の通訳見習いとして採用される。安政七年、為八十六歳の時に幕府は日米修好通商条約の批准書交換の為に遣米使節派遣を検討、為八は母方の叔父・立石得十郎の養子となり立石斧次郎と改名し使節団の随行を許された。遣米使節団はアメリカ海軍の蒸気船ポーハタン号に乗り正使 外国奉行兼神奈川奉行 新見(しんみ)豊前守 副使 外国奉行兼神奈川奉行・箱館奉行 村垣淡路守 監察目付 小栗豊後守忠順(後の小栗上野介・使節の実質的な最高責任者)に養父・立石得十郎と共に乗り込んだ。養父・得十郎は斧次郎のことを為八から「タメ、タメ」と呼んでいたのでアメリカ人乗組員は斧次郎のことを「トミー」と呼んで可愛がったという。(他に諸説あり)この正使が乗ったポーハタン号の護衛兼外洋航海演習として勝海舟が艦長を務める咸臨丸が随行した。斧次郎ことトミーはサンフランシスコ到着までの航海中、毎日十数回もアメリカ人士官室に出入りしては愛嬌を振りまいて英会話を習得したという。また、乗船していた牧師・ウッドから毎日二回英語を教わった。サンフランシスコ港に入港後使節団は鉄道に乗りワシントンに到着、熱烈な歓迎を受けたがとりわけ「トミー」こと斧次郎は巧みな英会話でアメリカの婦人たちからもてはやされた。当時の新聞によると「トミーは若き日本の美しい代表」など新聞によっては大きな肖像を載せて「お忍びのプリンス」と掲載した。当時アメリカでは「トミーポルカ」なる歌まで作って歓迎されたという。「トミー」こと斧次郎は帰国後の万延元年に十七歳で十人扶持の御雇い通詞として幕府に取り立てられ、翌年にはハリスの通訳官ヒュースケンが攘夷派の薩摩浪士に暗殺されてしまう。斧次郎はヒュースケンに代わりアメリカ公使館にハリスの通訳として勤める。十八歳から二十歳まで幕府の開成所の教授職並出役になり、外国奉行御書翰掛としてフランス語通訳・田辺太一や益田孝(後の三井物産社長)や英語通訳・福沢諭吉等と共に働く。この間、下谷七軒町の自宅で英語塾を開き半年の住み込みで英語以外は話すことを禁止した教育を行った。文久二年十九歳の時に十八歳の妻・照との間に長男をもうけるも妻・照は三十三歳の若さで亡くなっている。翌年、実兄・小花和重太郎によって幕府に「弟丈夫届け」が出され名を「米田桂次郎」と改め、「立石斧次郎」の名は消滅する。慶応元年の動乱の時には兄・小花和重太郎と共に長州征伐に向かう将軍・家茂に騎馬軍装で随行する。慶応三年に兄の小花和重太郎とビールを片手に微笑んでいる当時としては珍しい写真が撮影された。(大阪城駐屯中に将軍・慶喜とアメリカ公使ヴァン・ファルケンバーグとの内謁見で通訳を無事に果たした祝いにアーネスト・サトウから贈られたイギリスビールを兄と酌み交したときの写真)慶応四年に鳥羽伏見の戦いから戊辰戦争が始まり桂次郎は兄・小花和重太郎と共に将軍・慶喜に随行して海陽丸で大阪を脱出して江戸へ帰る。その後、官軍の板垣退助が日光東照宮を焼き払う命令を出したと聞くや兄・重太郎と共に大鳥圭介率いる旧幕府軍に合流、父が奉行を勤めた日光を守る為に戦う。宇都宮でゲリラ戦のような苦しい戦いの中、兄・重太郎が敵弾を腹部に受け死亡、桂次郎は兄の遺体を背負って三日間山中を戦い日光の浄光寺に葬ってもらう。桂次郎はその後も戦い続けるが大桑の戦いで太ももに貫通銃創を負い落馬失神してしまう。一命ととり止めた桂次郎は大鳥圭介と共に仙台へ脱出、武器商人のプロシア人ヘンリー・シュネルと共にフランス船で上海に渡る。桂次郎は旧幕府軍の為に武器を調達しようと奔走するが、その時パリ万博に将軍名代として行っていた徳川昭武一行が急遽帰国途中に立ち寄った上海で偶然遭遇する。桂次郎は一行に随行していた旧知の渋沢栄一に事情を説明し協力を要請するが渋沢にもうそんな時代ではないと強く諭され武器調達を断念して帰国する。明治二年頃に帰国した桂次郎は小日向水道町の実家に戻るが新政府から旧幕府軍の隊長として賞金首の人相書きが廻っていた。父の小花和度正は小花和家の先祖で上州長野原箕輪城主の長野姓を名乗らせ「長野桂次郎」と改名、以後桂次郎の子孫は「長野姓」を名乗る。明治三年の二十六歳の頃、桂次郎がかつて下谷七軒町の英語塾教えていた愛弟子の三宅秀が教授を勤めていた金沢の英学校を辞職するにあたり後任を探していたところ、慶応義塾の福沢諭吉の推薦で後任に就くことになった。三宅秀はかつての恩師が後任と聞いていたく喜び自分の家財道具一式を贈って帰京したという。翌年、桂次郎に明治政府から帰京命令を受けた。政府の筆頭書記官の田辺太一の強い推薦で岩倉具視、大久保利通、木戸孝允等岩倉使節団に二等書記官の肩書きで通訳として随行することになった。一行はアメリカ号に乗船して出港、十二年前の少年時代のような熱烈歓迎を期待していたが、今回は革命政府の通訳として洋服で訪米した為に使節団は歓迎されず、しかも天皇の委任状を持っていなかった為に面会も許されなかった。大久保利通と伊藤博文が委任状を取りに戻っている間、無駄に時間を過ごし大した活躍も出来ぬまま桂次郎は二等書記官の職を解任され工部七等出仕に格下げされる。(船内で誰にでも気軽に声をかける性格が災いし無礼な振る舞いをしたと言いがかりをつけられ船中裁判にかけられた為だとも言われているが詳細は不明)帰国後の明治五年頃には工部省鉱山寮七等出仕として伊藤博文の下で働くが明治十年に工部省鉱山寮が廃止になって失業する。官職に見切りをつけた桂次郎は家族を連れて北海道石狩へ移住する。石狩では英国スコットランドで実験された缶詰事業を興すが後に開拓使に接収され、一家は札幌郊外の軽川で開拓に従事する。明治十四年には亡兄・小花和重太郎の妻・直子と長男太郎が加わる。この頃、炭田事業が始まり開拓使に採用される。しかし、翌年には開拓使は廃止され農商務省の管轄になり炭鉱鉄道之部所属岩内炭山の主任になる。しかしこれも廃坑となり収入の道は閉ざされ帰京、明治二十年にハワイ移民監督官となって一家でハワイ王国に移住する。明治二十二年、四十五歳の時に生活が困窮して帰国、一家は麻布三ノ橋に家を買った。明治二十四年に大阪控訴院に招かれ単身赴任し中ノ島の官舎に雪という女性と暮らす。その間に東京に残してきた二度目の妻・わかが死去。明治四十二年、六十六歳で退官した後西伊豆の戸田村に買ってあった家で余生を送り、大阪控訴院時代に身の回りの世話をしていた雪を呼び寄せて再婚、大きな愛犬ジム(ラブラドールレトリバー)と共に暮らした。大正六年に七十七歳で死去。長野桂次郎の先祖は平安時代には三十六歌仙の一人・在原業平で時代が下り戦国時代では武将で上州長野原箕輪城主長野業正といい武田信玄等と戦い勇名を馳せ、現代では長野家の当主は長野和郎氏で同じひ孫に前フジテレビの女子アナで現フリーアナウンサーの長野智子がいる。
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2009年11月12日

海援隊船将 白峰駿馬

shiraminesyasin.gif白峰駿馬は弘化四年に長岡藩士・鵜殿瀬左衛門の三男として生まれた。父が亡くなってからは異父長兄の鵜殿団次郎が何くれと世話をし文武を仕込んだという。長兄団次郎はその才覚を見込まれ幕府に請われて出仕し幕府御目付役に累進した。文久二年、駿馬は江戸へ出て兄団次郎の友であった勝海舟が頭取を務める軍艦教授所に入り勝海舟の門下生となる。元治元年には長岡藩を脱藩して神戸に赴き勝海舟の神戸海軍塾に入塾、勝海舟の門下生だった坂本龍馬や近藤長次郎、菅野覚兵衛等と知り合い共に神戸海軍操練所で海軍術を学んだ。しかし、禁門の変の後、他藩から多くの門下生を入れたことを危険視した幕府によって海舟は罷免され神戸海軍操練所は閉鎖されてしまう。駿馬は単独で長崎に出て英語などを学んだ。慶応元年に長崎で坂本龍馬と再会し龍馬や菅野覚兵衛等が設立した亀山社中に参加した。その後、亀山社中が経営の危機に陥り土佐藩の援助を受けるにあたって海援隊と移る中、駿馬は龍馬にその才覚を認められ船将に抜擢され信頼された。慶応三年に龍馬の身辺警護の為に京都の酢屋に逗留していたが、龍馬は中岡慎太郎と共に暗殺されてしまう。すぐさま現場の近江屋に駆けつけた薩摩藩士がまだ息のある龍馬の最後の言葉が「酢屋にいる白峰駿馬を呼んでくれ」だったという。駿馬はそれほど龍馬に信頼されていた。維新がなった明治元年に親友の菅野覚兵衛と共に横浜港を出港してアメリカへ留学する。ラトガース大学やアメリカ合衆国ニューヨーク造船所で造船術を学ぶ。六年間の留学の末、明治七年に帰国して海軍省に入省、明治九年に永代橋の際で200トンの白峰丸を建造、これがわが国洋式造船の嚆矢といわれている。その後、官を辞して明治十一年に横浜神奈川青木町七軒町に日本初の民間造船所を設立した。一旦は軌道に乗ったかに見えたが明治十八年に白峰造船所は倒産の憂き目を見る。しかし駿馬は諦めず明治二十八年に大阪西区今木町に、翌年には広島呉市吉浦に白峰造船所を再建した。その後、順調に業績を伸ばし軍器の発明・開発に尽力し日清戦争に絶大な威力を発揮した鉄船軍器「端船」の開発するなどした。しかし金融恐慌の波に耐えられず明治三十六年に白峰造船所は事業中止に至った。明治四十二年二月に勲六等瑞宝章を下賜されるが四月にその波乱万丈の生涯を閉じる。享年六十三歳・・・白峰駿馬は何事にも臆することなく、富や名声にこだわることなく豪放磊落、自由奔放な生き方はまさに坂本龍馬に酷似しているように見える。
posted by こん at 16:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 海援隊 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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