一、高マチ袴
一、ブツサキ羽織
一、宗十郎頭巾
外に細き大小一腰各々一ツ、御用意あり度存上候。
九月十三日
坂本龍馬
平井かほどの 」と書かれているが真意は不明で解釈によっては加尾に男装させて一緒に国事の為奔走しようともとれるし京都は暗殺が横行し不逞浪士が闊歩する危ないところだから男装して外出するようにとの気遣いの手紙なのか今となっては解らない。加尾は手紙どうり一式を用意、刀は国もとの兄に送ってもらった。しかし、その後龍馬は姿を見せず加尾は兄の収二郎に相談する。収二郎は龍馬に誘われた加尾が勤王活動に参加することを危惧して、「坂本龍馬が昨日24日脱藩した。きっとそちらに行くと思うが、たとえ龍馬からどのような事を相談されても、決して承知してはならない。もとより龍馬は人物ではあるが、書物を読まないので時には間違えることもある」との内容の手紙を書き送った。だが、収二郎自身も土佐勤王党の幹部として調停の権力を利用して土佐藩主を尊王思想に導こうとした事に山内容堂が激怒、武市半平太と共に切腹を仰せつかる。兄の切腹後、龍馬は姉・乙女に加尾に気遣いする書状を送ったとされるが、ふたりは二度と会うことはなかったという。その後、龍馬は江戸へ剣術修行に出て千葉周作の弟・定吉の弟子となる。龍馬はその娘・佐那と恋仲となり姉・乙女に「佐那は剣術も良く出来、馬にも乗り、顔かたちは以前の恋人の加尾よりも少し良く」惚気の様な手紙を書き送った。慶応二年に加尾は元土佐勤王党幹部だった四歳年下の西尾直次郎志澄と結婚、平井家の婿に迎えた。一女をもうけ、明治十一年に夫婦揃って西山家に復籍した。その後、娘に婿をとらせて平井家の再興を果たし明治四十二年に死去した。享年七十二歳・・・加尾と龍馬の初恋はかなわなかったが龍馬は加尾に「嵐山夕べ淋しく鳴る鐘に こぼれそめけり木々のもみじ葉」という一首を贈ったといわれている。