2009年05月18日

偉人たちの末期の言葉

偉人たちの末期の言葉、吉田松陰は安政の大獄最後の犠牲者となり伝馬町の牢内で処刑された。松陰は死に際して遺書ともいうべく「留魂録」を書き上げた。その巻頭には「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留置まし大和魂」と詠じ、巻末には「七たびも生き返りつつ夷(えびす)をぞ、攘(うちはら)はんこころ吾れ忘れめや」と結んだ。また、新撰組局長の近藤勇は勝沼の戦いに敗れ、下総流山で降伏して新政府軍に捕えられ、僅か二十日後に板橋で斬首された。その斬首の際に「ながなが御厄介に相成った。」と警護の武士に言葉を残して刑場の露と消えた。その首級は塩漬けにされて京都三条大橋に晒された。西郷隆盛が西南戦争で敗れ、城山から鹿児島を目指して歩を進めたが、島津応吉私邸前まで来たときに敵弾を右大腿部と腹に受けて路上にひざまずいた。傍らにいた別府晋介に向かって「晋ドン、晋ドン、もうここでよかろ」といって遥か東方を伏し拝んで「おお・・御上(明治天皇)」と言って切腹、別府晋介が「先生、ごめんなってたもし」と介錯したといわれている。首級は西郷の下僕が持って逃げたが重たくて、折田正助邸門前に手拭に包んで埋めたという。胴体は官軍によって屍体検死が行われたが、西郷の首が無くそれらしい体躯の死体で腕の傷(十二歳のころ喧嘩の仲裁に入った西郷に投げ飛ばされた少年が恨みをもって西郷を待ち伏せ不意打ちに襲い掛かった際に腕に大きな傷を負っていた。)と睾丸の大きさで西郷と判断されたという。桂小五郎こと木戸孝允は明治十年、西南戦争が勃発したときに鹿児島鎮撫の任を希望したが、認められず明治天皇とともに京都出張に出ていた。(幕末に木戸は西郷と薩長同盟締結に尽力し維新を成し遂げた同志という自負があった。)木戸は京都で脳障害(脳溢血か脳血栓?)で倒れ、意識が朦朧とした中、見舞いに訪れた大久保利通の手を握り締め「西郷も、もうよさぬか」と言い残して息を引き取ったという。勝海舟は晩年、赤坂氷川で「吹塵録」や「海軍歴史」「陸軍歴史」「氷川清話」などを執筆してすごした。明治三十二年に脳溢血で倒れ「これでおしまい」といって息を引き取ったという。

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posted by こん at 09:40| Comment(0) | TrackBack(0) | その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年05月02日

西郷隆盛の評価

西郷隆盛は維新の三傑の一人で最大の功労者ではあるが、一方では倒幕の為にはいかなる手段も厭わない非情さを持っていたといわれているが、西郷と接した人々は皆一同に「情」の人といっている。幕末の日本で新しい時代の夜明けを迎えようとしていた頃の坂本龍馬は西郷のことを「大きく撃てば大きく響き、小さく撃てば小さく響く釣鐘のような人物」と言っていた。これは相手によって態度を変えることではなく、相手の器量に合わせて、すべてを飲み込み、大きく包み込む度量の大きさを表現した言葉といわれている。部下の不始末の責任は自分の責任とし、自分の功は部下の功にするという生き方に表れているという。江戸城無血開城を西郷とともに決めた勝海舟は「従容として、大事の前に横たわるを知らない態度に、俺もほとほと感服した。」と会見後に語った。西郷にか達観的に物事を観れる力量があり、どんな重要な要件であっても、緊張の色見せずに当たれ、部下はその態度を見るだけで落ち着き、持てる力を存分に発揮できる。何があろうと慌てず騒がず、悠然としている西郷の姿に部下はもちろん、敵将でさえ魅了した。幕末に「人斬り半次郎」と恐れられた中村半次郎。維新後に日本陸軍で初の将官待遇を受けた武闘派の桐野利秋は西郷を「我が運命、我が生命」といって西郷が征韓論に敗れ下野したときに将官の地位を投げ捨てて西郷とともに鹿児島へ帰った。また、日本の将来を担う人物と高い評価を受け欧州留学に出ていた薩摩藩士・村田新八は帰国後、西郷の下野を聞き留める大久保を振りきって鹿児島へ帰り運命を西郷とともにした。西南戦争の時には他藩であった旧中津藩士・増田栄太郎は「一日西郷に接すれば一日の愛生ず。三日接すれば三日の愛生ず。親愛日に加わり、今は去るべくのあらず。ただ死生をともにせんのみ」とまるで初恋をした少女のような台詞を吐いた。西南戦争後、福沢諭吉は「西郷は官員の敵にして、人民の敵にあらず」という追悼文を書いた。また、時代は昭和に入って三島由紀夫は「西郷は日本の地霊の如く、年をへだてては地上に現れる」と神霊の如く偉大さを評価した。現代は日本中に西郷隆盛の銅像が建立されているが、鹿児島では大久保利通が西郷を裏切り鹿児島を見捨てたと嫌われ、銅像が建立が遅れたといわれている。維新三傑の中で木戸孝允(桂小五郎)は「萩の乱」で同志だった前原一誠を残酷な殺し方で処刑したり、自分の故郷の山口を焼き野原にし、大久保利通も親友・西郷隆盛を西南戦争で死なせ、鹿児島を焼き払ったといわれている。西郷だけは最期まで鹿児島を愛した。
posted by こん at 09:00| Comment(3) | TrackBack(0) | 薩摩藩 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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