2013年10月29日

「鹿鳴館の貴婦人」会津藩山川家の末娘 大山捨松

2013041419415654e.jpg大山捨松は会津藩の国家老・山川尚江重固の二男五女の末娘・山川咲として安政七年に生まれた。生まれた時には既に父・重固は亡くなっており祖父・重英が親代わりとなり重英亡き後は長兄・大蔵(後の浩)が親代わりとなった。知行高千石の裕福な山川家で育ったが咲が八歳のとき会津戦争が勃発し籠城戦を家族と共に戦い幼いながら負傷兵の手当てや炊き出しなどを手伝ったり城内に着弾した敵砲弾の不発弾を濡れ布団で押さえて消す「焼玉押さえ」を手伝った咲は負傷し義姉(山川大蔵の妻)は亡くなった。(後に夫になる大山巌は会津鶴ヶ城を攻める側だった。)会津藩が降伏し山川家は家族で斗南藩へ移住するも賊軍の汚名を着せられた厳しい生活の中、末娘の咲は函館の沢辺琢磨のもとに里子に出され、その縁でフランス人夫婦の家に引取られて生活するようになる。明治四年、アメリカ視察から帰国した北海道開拓使次官の黒田清隆はアメリカで見た男女が同じ仕事に汗をかいている姿に感銘を受け(当時日本は男尊女卑が当たり前だった。)日本の若者をアメリカに留学させるのに異例の男女若干名として女性の留学生も募集した。山川家はこの官費留学を名誉挽回の絶好機と見て次兄・健次郎を留学させるが当初女子留学生の応募は殆どなかった。十一歳になった咲は利発でありフランス人との生活で西洋文化に慣れ親しんでいるという様々な理由といざという時には次兄・健次郎もいるということから留学生に応募し岩倉使節団に随行する。山川家では母・艶は十年もの長い期間の留学なので捨てる気持ちで待つという意味合いをこめて名前を咲から捨松と改め送り出したという。アメリカに着いた五人の女子留学生達の内年長の二人は西洋の生活に馴染めずホームシックや病気の為に一年を待たずに帰国してしまうが年少の捨松十二歳、津田梅子九歳、永井しげ十歳ら三人はアメリカ生活に馴染み捨松はコネチカット州ニューへブンのリオナード・ベーコン牧師の家庭での滞在になった。(永井しげは捨松と同じところのアボット牧師の家、津田梅子はジョージタウン「現・ワシントンDC」の日本弁務官書記で画家のチャールズ・ランカンの家庭へ預けられる。)ベーコン家で捨松はゲストとしてではなくベーコン家の14人の兄弟姉妹の末っ子として育てられ十六歳でキリスト教の洗礼を受けた。特に2才年上のアリスとは年が近いこともあって大変仲がよく生涯の付き合いであったという。捨松は地元ニューヘブンのヒルハウス高校を経て永井しげと共にニューヨーク州ポキプシーで大学生活に入る。永井しげが専門科である音楽学校を選んだが捨松は英語を完璧にマスターしていたため通常科で名門のヴァッサー大学へ入学、この全寮制女子大学でサムライの娘SUTEMATSUは優秀な成績を収めその美貌もあって大学2年の時には学生会の学年会会長に選出され優秀な頭脳を持った生徒しか許されなかったシェイクスピア研究会やフィラレシーズ会(真実を愛する者の会)に入会している。全学生通年成績3番目の「偉大な名誉」の称号を得て卒業する。卒業式に際して卒業生総代の一人に選ばれ卒業論文「英国の対日外交政策」を講演しその格式高い英語力と秀逸性から地元新聞に全文掲載された。卒業後日本では北海道開拓使が廃止され滞在理由がなくなり帰国命令が出されていたが捨松は滞在延長を申請し許可されるとコネチカット看護婦養成学校に通い1年で上級看護婦の免許を取得した。(この前年にアメリカ赤十字社設立に強い関心を寄せていた。これは幼少の頃に遭遇した会津戦争鶴ヶ城籠城で幼いながらも負傷兵の手当てや義姉の登勢が苦しみながら死んでいく姿を目の当たりにしたことが影響されたかもしれない。)明治十五年に日本の大学で教職に就く夢や日本赤十字に携わる夢を見て帰国した捨松は日本が今だ男尊女卑の風習が色濃く残っていることに絶望する。しかも十一歳という幼い時期の渡米で日本語も上手に話せす漢字は殆ど出来ない状態だった、当時は10歳代で結婚が当たり前の時代に23歳をむかえ親友のアリス・ベーコンに就職も出来ず婚期も遅れていると愚痴った手紙を送っている。そんな頃、妻を亡くし三人の娘を抱えた大山巌が永井しげ(瓜生繁子)の結婚披露宴で捨松を見て一目惚れしたという。(前妻は同じ鹿児島薩摩藩の精忠組出身の吉井友実の長女・沢子で三人の女子を出産後産後に体を壊し亡くなったので舅の吉井が大山を不憫に思い後妻を探していたところアメリカの名門大学で優秀な成績を残しフランス語やドイツ語も話せる捨松に白羽の矢が立ったとも云われている。当時の外交交渉は夜会や舞踏会でも夫人の存在は重要だった。)吉井友実を通じて山川家へ縁談を申し込むがにべもなく断られる。その理由は明らかで会津藩家老の家柄の山川家では会津戦争で一家一族の多くが薩摩藩兵に殺され当時当主の山川浩(大蔵改め)の妻も殺されている。その攻撃の砲兵隊長だった大山に大事な妹を嫁がせる訳がなかった。しかし大山も諦めず今度は従兄弟で農商務卿の西郷従道が説得に乗り出した。山川浩は二度三度と追い返すが西郷従道の誠心誠意の説得に我山川家は賊軍ですのでと断るが従道は「おいの兄さあ西郷隆盛も賊軍でごわす。自分も大山も賊軍の身内で同じ立場ではごわはんか」と粘った。山川は最後は「捨松本人次第」と譲歩する。捨松は一度あってみたいとデートの提案をした。当時、女性側からデートの誘いとは前代未聞のことだったが大山は大喜びで捨松と会う。薩摩なまりの大山と日本語があまり流暢に話せない捨松(アメリカ滞在中は日本語を忘れないようにと時折留学中の次兄・健次郎と会ったり永井しげとは日本語で会話をしていた)も英語での会話が捨松の心を和ませ(大山は英語は勿論、ドイツ語やフランス語も流暢に話せた)何度かのデートを重ねるうちに親子ほど年の離れた大山の心の広さや茶目っ気たっぷりのジョークで捨松も次第に恋心を抱くようになっていった。。アメリカで姉妹のように育った親友のアリス・ベーコンに捨松は「私は今やっと未来に希望が持てるようになりました。」からはじまり「たとえ家族がどんなに反対しても私は彼と結婚します。」と締めくくる惚気のような手紙を送った。交際三ヵ月で結婚となった二人は当時新築したばかりの「鹿鳴館」で結婚披露パーティーを開いたが案内状の全文はフランス語だったという。以後大山捨松となりその凜とした姿は「鹿鳴館の華」と讃えられ巌は仕事が終わると寄り道など一切せず真っ直ぐに妻や子供達のいる家へ帰り家族を大事にしたという。結婚二年後、捨松は政府高官夫人たち数名で共立東京病院(現・慈恵会医科大学病院)に見学に行った際に男性の雑用係が女性患者の世話をしている姿を見て愕然とした。アメリカでは考えられない情景だった。捨松はすぐさま院長の高木兼寛に看護婦養成学校の必要性を提案し院長も自分のイギリスセントトーマス病院に留学しナイチンゲール看護学校をつぶさに見学し必要性を感じていたが現実的に資金がないことを告げる。捨松は政府高官の妻達を何度も訪問し説得を繰り返し鹿鳴館でチャリティーバザールを開催することを提案し捨松自ら陣頭指揮を取った。(日本では物を売るのは身分の低い商人がすることで上流階級の人間がすることではないと皆が反対したが西洋では当たり前のことで上流階級だからこそ慈善事業を行うべきだと説得した。)鹿鳴館慈善会バザーを開催し3日間の開催で12000人の入場者となり当初の目標1000円をはるかに越える8000円という利益を上げた。このお金を全額共立東京病院の高木院長に寄付し2年後には有志共立東京病院看護婦教育所(現・慈恵看護専門学校)を設立される。このことを知った伊藤博文の要請を受け華族女学校(学習院女学部)の設立に尽力し親友の津田梅子やアリス・ベーコンを教師として招聘し日本の女子教育の発展に期待したが出来上がった家族女学校は旧態依然とした男尊女卑の儒教的道徳教育で捨松たちを失望させた。明治三十三年、親友の津田梅子が女子英学塾の設立の相談を受け瓜生繁子(旧姓・永井しげ)やアメリカに帰っていたアリス・ベーコンに協力を頼んだ。華族女学校の時に失望した経験から自分たちの手で何処からも制限を受けないように誰からの援助も受けない理想の英学塾、後の津田塾大学が創設された。しかし経営資金の不足により瓜生繁子やアリス・ベーコンはボランティアで教師を務め捨松自身は顧問として塾の運営に積極的に関与し後に理事や同窓会長もつとめた。日清戦争が勃発すると捨松は戦傷者の看護を呼びかけ自らも活動を始め日露戦争では夫・巌が満州軍総司令官という重責を担って戦っているさ中、妻・捨松は鹿鳴館出の人脈を活かし華族の夫人、令嬢を率いて募金活動や戦傷者の為の包帯作りなどを率先して行い、アメリカで取得した上級看護婦の資格を生かして日本赤十字社での戦傷者の手当てなどのしたという。また、アメリカの新聞社や週刊誌に戦争の経緯、日本の立場や苦しい財政事情などを寄稿してアメリカでの親日家を増やしていった。アメリカで集まった義援金はアリス・ベーコンを通して捨松のもとに送られ慈善活動費に使われた。日露戦争終結の仲介に入ったアメリカ政府高官は「この戦争で日本に有利な結果をもたらしたの要因の1つは大山捨松の活躍にあったからだろう」と言わしめた。大正五年、夫・巌は糖尿病からくる胃病から胆のう炎を併発し七十五歳出なくなり国葬が行われる。その後は一切表舞台には出なくなった捨松だが親友の津田梅子が病に倒れると混乱する女子英学塾に乗り込んで陣頭指揮を取り学校運営を安定させると引退した津田の後任塾長就任を見届けた翌日に捨松は流行していたスペイン風邪で倒れ回復することなく五十八歳の生涯を閉じる。津田梅子が女子教育に生涯を捧げ一生独身を貫きアリスベーコンもまた父の影響で人種差別や女子教育に夢中になり婚期を逃がし生涯独身だったことを思えば捨松は大山巌というすばらしい伴侶に恵まれ先妻・沢子が生んだ三人の女の子と自分が産んだ二男一女の六人の子供(二人の女の子は流産や幼くして亡くなっている)を分け隔てなく育て上げ(先妻の子供も「ママちゃん」と呼んで懐いていた。)幸せな家庭を築いた。{徳富蘆花は「不如帰」で捨松をモデルに意地悪な継母にしたて義娘・浪子を結核を理由に離れに押し込め不幸な死に方をした小説を書き誹謗中傷した。これが評判になり捨松はいわれなき中傷を受けた。)実際には先妻の長女・信子は結核により嫁ぎ先の三島彌太郎とその母に一方的な離婚を申し付けられ実家に帰った後は看護婦の資格がある捨松の親身な介護を受け病状が小康な時を見計らって夫・巌と家族三人で関西旅行を気分を和ませたという。(親友の津田梅子は三島彌太郎宅へ押しかけ母親に猛抗議したという。)捨松が亡くなる数日前に徳富蘆花から謝罪があったというが遅きに失した。
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2013年09月30日

会津鶴ヶ城攻撃の砲兵隊長で後に山川捨松の夫になった 大山巌

ouyama_phot.jpg大山巌は天保十三年に薩摩藩鹿児島城下の加治屋町に父・薩摩藩士大山綱昌の次男として生まれた。父・綱昌は西郷隆盛の父である西郷隆充の弟(大山家に養子)であるので西郷隆盛、従道兄弟とは従兄弟に当たる。六歳のときに「郷中」(薩摩藩独特の青少年団のようなもの)に入り、当時郷中のリーダーだった十六歳年上の西郷隆盛の指導により死を恐れず事にのぞむ姿勢や男として卑怯な振る舞いを嫌うリーダーとしての身に付けていった。青年になると薩摩藩精忠組(西郷隆盛や大久保利通らがはじめ近思録を輪読する会から尊皇攘夷を経て倒幕思想に発展した)に入り十九歳のときに有馬新七らと倒幕決起の為に京都寺田屋に集結していたところを説得に来た同じ勢忠組同志の斬り合いとなり急進派の有馬新七ら六名が死亡、二名が負傷したが二階にいた大山巌、西郷従道らは鎮撫派の大山綱良の説得により投降することになった。(寺田屋騒動は薩摩藩精忠組の急進派が藩父・島津久光が千名の藩士を引き連れて上洛するに及んで倒幕の先駆けになろうと集まったが久光自身は倒幕の考えはなくあくまで公武合体を進めようと思っていたので有馬ら急進派を自身で説得しようと大山綱良らを遣わしたといわれている。このとき西郷隆盛は説得の為急ぎ京都を目指していたが久光の命に逆らったということで逮捕され鹿児島に連れ戻されていた為精忠組の指導者はいなかったのが原因だといわれている。)大山巌はその後三年の謹慎を言い渡されるが生麦事件を発端として薩英戦争が勃発、巌は従道と共にスイカ売りに化けて敵旗艦に近づき攻撃を加え乗っ取り作戦を企てたり砲兵として戦ったが西洋兵器の前にはあっけなく敗北した。巌はその後、砲術の重要性を痛感し江戸へ出て高名な兵学者だった江川太郎左衛門に学び日本の砲兵術の第一人者となった。鳥羽伏見の戦いでは右耳に銃創を受けるが戊辰戦争では薩摩軍砲兵隊長として進軍、会津戦争では十二斤臼砲を改良した「弥助砲」(大山巌は維新前まで大山弥助と名乗っていた。)を駆使して戦果を挙げる。鶴ヶ城籠城戦では土佐藩士らが当初担当していたが会津藩籠城藩士達の頑強な守りに苦戦し薩摩軍に応援要請を出した。鶴ヶ城包囲に参加さした巌だが僅か一日で城中からの銃撃で右股を撃ち抜かれ負傷(一説には山本八重の狙撃によるものと云われているが不明で土佐藩軍監小笠原唯八改め牧野群馬が撃たれたとの説あり)したが弥助砲の活躍で勝利した。維新後はフランスに留学し晋仏戦争を視察しスイスに移るが大西郷が征韓論に敗れ下野すると急遽帰国し鹿児島に帰って大西郷と直談判して東京に戻って欲しいと懇願するも西郷に拒否される。ならば自分も残って西郷に尽くしたいと頼むがこれも拒ばまれ西郷から「お前は新政府の為に尽くせ」と叱咤されやむなく東京に戻る。その後、熊本神風連の乱を鎮圧し熊本鎮台司令長官、東京鎮台司令長官を歴任、西南戦争が勃発すると政府軍別働第一旅団司令長官として大恩人・西郷隆盛や郷里の盟友達と戦うことになる。巌は最後の戦いとなる城山の総攻撃の責任者として西郷軍を鎮圧した後、西郷夫人のいとに弔慰金を手渡したが突き返され巌の姉に「何故西郷を殺したのか」と責め立てられたが巌は黙ってうつむいたまま何も答えられなかったという。その後、巌は陽気な性格が一変し無口な男になり生涯二度と鹿児島に帰ることはなかったという。翌年の明治天皇の北陸、東北御巡幸に天皇は大山巌を同行させ「私は西郷隆盛に育てられた。しかし今、西郷は賊の汚名を着せられさぞ悔しい思いをしただろう。私も悔しい・・聞けばその方も幼い時より西郷に育てられたというではないか、これからはその方を西郷の身代わりに思う。」とのお言葉を賜り巌は感涙し「吉之助兄さあの身代わりにならねばと立ち直ったという。」巌は長州閥の山県有朋と共に日本陸軍の発展に尽力し参謀本部次長、陸軍卿を経て第一次伊藤博文内閣から陸軍大臣となる。明治二十七年、日清戦争が勃発し大山巌は陸軍第二軍司令官として出陣し部下に「たとえ敵国民であろうと仁愛をもって接すべし」と訓示し理想とする大西郷の面影を誰もが抱いたという。明治三十七年、日露戦争が始まると大山は後を若い人材に任せ引退を考えていたが内務大臣の椅子を蹴って参謀本部次長に就任した児玉源太郎の説得もあって現地と大本営の中間に位置する満州軍総司令部が設置させその総司令官に大山巌が就任(この人選には明治天皇の指名があり陛下は「山県有朋が適任との声もあったが山県は切れ者でどんな細かいことでも気がつくので軍司令官達は嫌がるだろう。その点、大山はあまりうるさくないので私は適任だと思う。」ということで大山巌は日露戦争の陸軍責任者として現地へ赴く。作戦は信頼できる児玉源太郎参謀次長に任せ責任はすべて大山自身が負うという大西郷並みの人徳で当時世界最強といわれ日本陸軍の数十倍の兵力を持つ帝政ロシア陸軍を打ち破り「大山巌」という名前は世界に知れ渡った。秋山好古少将率いる騎兵第一旅団がロシア軍に包囲されたとの連絡が司令部に入ったとき司令部が慌てふためき様々な情報が錯綜し誰もが冷静さを失い児玉たちの怒声が鳴り響いていた。このとき別室にいた大山のもとにも伝わり自分が指揮を取るしかないのかと思ったがふと「西郷吉之助兄さあならどうするか」と考えとっさに寝巻きに着替えてさっき昼寝から醒めたように「何じゃにぎやかじゃのう児玉さあ、今日もどこかでゆっさ(いくさ)でごわすか?」ととぼけて見せた。みんな顔を見合わせてふきだして笑い冷静さを取り戻して適切な状況判断が出来た。後に児玉源太郎はこの戦争は大山巌でなければ勝てなかったであろうと語ったという。しかしいつもとぼけていたわけでもなく児玉が旅順へ第三軍の督励の為に出張し留守にしている間は参謀会議に出て積極的に指揮を取ったという。凱旋帰国した大山に息子の柏が戦争で一番辛かったことは何か?と尋ねたときに巌は「知っていることも知らない振りをすることかな」と笑ったという大山巌とはそういう男であった。大山を総理大臣にという声もあったがこれを固辞し仕事を終えるとまっすぐに家に帰り妻と子供達を第一に考える巌は部下や使用人に対しても威張ることはなく慈愛を持って接した大山巌は大正四年、愛妻・捨松に看取られ七十四歳の生涯を終えた。危篤状態で意識朦朧で「兄さあ・・兄さあ」とうわ言を繰り返した。捨松は「あなた、やっと西郷さんに会えたのね」と巌の手を握ったという。・・・太平洋戦争後にGHQが日本を占領した時に多くの軍人の銅像を撤去されたがGHQの総司令官・マッカーサーは大山巌の銅像撤去を許可しなかった。マッカーサーもまた大山巌という男を尊敬していたのではないかといわれている。
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2013年07月08日

会津藩名門家老家の悲劇 内藤家一族

内藤家は会津藩の名門の家柄で古くは武田信玄の家臣で「武田二十四将」の一人「内藤修理亮昌豊」に嗣子がいなかった為に高遠城主・保科弾正忠正敏の次男を迎えて相続させた。この内藤家は時代が下り徳川の世になると「保科正之」(徳川二代将軍・秀忠の庶子として生まれ保科家に預けられる)の臣下として会津藩に入り大老職など重要ポストを担った。戊辰戦争当時は内藤介右衛門信節が十一歳で内藤家(家禄千七百石後に二千二百石に加増)を相続し戊辰戦争の時に会津藩家老を務めた。内藤信節(のぶこと)は天保十年、会津藩内藤家9代目として誕生した。弟に梶原平馬(梶原家に養子)、武川信臣(内藤家は本家だけが内藤姓を名乗り傍流は武川姓を名乗るのがならわしだった)がいる。藩主・松平容保が京都守護職を拝命すると内藤信節は二十三歳で京都勤番となり二年後に若年寄に昇進、禁門の変の時に八隊千人の兵を率いて長州藩を撃退したが後の警護を薩摩藩に任せた為に藩主の叱責を受け若年寄を解職、蟄居謹慎させられる。翌年には復職し若年寄から家老になった。(この時に実弟・梶原平馬も家老になる。)慶応三年、会津藩は京都守護職の辞任を申し入れたが聞き入れられなかったので会津から内藤信節と梶原平馬が上京し老中・板倉に直談判し藩主の一時帰国を承諾させた。しかし、鳥羽伏見の戦いが始まるや将軍・慶喜の大阪城入城に伴い守護職屋敷を土佐藩に引き渡して大坂に下る。信節は直接鳥羽伏見の戦いには参戦せず枚方、守口方面へ戦場視察に出かけたがその間に将軍・慶喜と共に藩主・容保が大坂城を抜け出して江戸へ帰ってしまう。内藤信節はこの藩主不在を堅く口止めし急いで江戸へ向う。(会津の藩士たちが戦っているさなかのこの藩主東帰騒動の責任を取って神保修理が切腹した。)この後、奥羽越列藩同盟に実弟・梶原平馬と共に成立させ白河口の総督を罷免された西郷頼母に代わり信節が総督となるも会津戦争時に勢至堂方面の陣将として出陣したが母成峠が破れ城下に敵が押し寄せるとの報を聞き大平口の原田対馬隊を吸収して1000人余りの大部隊となって鶴ヶ城に入り三ノ丸の守備を担う。この時期に内藤家一族は入城出来ずに菩提寺のある川面村に非難したが新政府軍が菩提寺である泰雲寺辺りを包囲した為にもはやこれまでと一族十二人が揃って自決するにいたった(隠居していた内藤信節の父・信順、母・とも(つや)、信節の妻・ふさ(ひさ)、信節の長男・英馬、娘・ひで、妹のとく、つぐ、姪と叔母の計九名と家臣四名と上田家の五人が泰雲寺書院にて自刃した。会津藩降伏後、謹慎生活を終え斗南藩移住し藩の存続に尽力するが廃藩置県後、多くの藩士が会津に帰るが内藤信節はそのまま青森県五戸村に残り土地の開拓や子供達の教育に生涯を捧げ六十一歳で没した。今でも「内藤田」という地名が残っている。次弟の梶原平馬は斗南藩の移住後廃藩置県で青森県になると庶務課長となるがその後北海道根室に後妻・貞と共に移住しこの地で亡くなった。末弟の武川信臣兄弟の中でも温厚な性格で和歌を得意とした。鳥羽伏見の戦いで敗れ江戸に引き揚げたが会津藩の帰藩命令に従わず彰義隊の幡随院分屯の信意隊隊長となり二人の兄が会津藩家老となった為に藩相殿と呼ばれ八十人余りの隊士を率いて奮戦するも新政府軍に破れ再起を図って江戸市中に潜伏し佐々木只三郎の実弟・佐々木源四郎邸で密談中に小者に使っていた宗兵衛の裏切り密告により新政府側の鳥取藩士に捕縛される。(この騒ぎで応対に出た源四郎は玄関で射殺される。)武川信臣は元会津藩上屋敷のあった和倉門の獄に幽閉され彰義隊士で会津藩家老の弟という事で烈しい拷問を連日受け続けたが会津武士の意地を通し得意の和歌を残した。「君と親の重きめぐみにくらぶれば、千引の石の責はものかは」(信臣は三角木の上で正座をさせられ、ひざの上に大石を幾つも積み重ねられる「石抱きの責め」を連日に渡り行われ骨は砕け皮膚は破れ肉が裂けても黙して語らなかったという。)明治元年、大赦令が出る三日前に斬首される。享年二十四歳・・・
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2013年07月03日

白虎隊士中二番隊の悲劇を生んだ隊長 日向内記

hinata.jpg日向内記は文久九年に会津藩上級武士・日向三郎右衛門(禄高七百石で会津藩内に十家ある日向家の総本家といわれている)の長男として生まれ諱は次法といい通称を内記といった。会津藩が京都守護職拝命後は京都に滞在、蛤御門の変では番頭組の組頭として戦功をあげ家老附組頭に昇進、会津藩軍制改革で朱雀士中二番隊中隊長になったが山川大蔵が若年寄りに抜擢されたのでその後任として砲兵隊隊長に任命され日光口に配属された。その後、日向内記は藩主警護の任にあった白虎隊士中二番隊中隊長に任命され藩主・容保に従って滝沢本陣に入った。(この人事に関しては不明な点が多く、何か最前線にあった砲兵隊隊長が任務に不手際があったのか更迭のような人事だったという。)新政府軍が迫る中、戸之口原が危ないとの知らせを受け急遽白虎隊士中二番隊は戸之口原に出陣し翌朝の戦に備え夜営を張った。食料調達の為(これは飯沼貞吉の証言のみ)か近くの本営・佐川官兵衛隊との打ち合わせのためか内記は白虎隊の少年達を置いて一人で隊を離れた。(このことが日向内記が少年達を置いて敵前逃亡したとのそしりを受ける)強清水村にある本営での作戦会議?の帰りに翌未明の激戦に巻き込まれ赤井谷湿地で敵弾を頬に受け帰隊出来ないまま指揮官のいない白虎隊士中二番隊はバラバラになり一部が飯盛山での自決した。(このことを内記が知ったのは会津藩降伏後のことだったという)日向内記は士中二番隊を探しながら鶴ヶ城まで戻り籠城戦に加わることとなったがこの時に郡上藩凌霜隊も日向内記の指揮下に入った。(日向内記は戻ってきた白虎隊士中一番隊と二番隊を1つにまとめた合同隊の隊長として西出丸の守備についた。)会津藩が降伏開城後に謹慎を経て明治三年に斗南藩移住の新藩主・松平容大(容保の嫡子で当時二歳)の警護役として従ったという。その後、内記は家族と共に移住したが廃藩置県で斗南藩が消滅すると会津に戻るも知人を頼って喜多方に移住したが定職には就かず六十歳の生涯を閉じた。(会津や喜多方でも二十名近くの少年を死に追いやった敵前逃亡者、卑怯者のそしりを受けたが一切の言い訳をせずその後も会津藩主の名誉回復のために奔走し多という。もし、本当に日向内記が少年を見捨て敵前逃亡をしていたなら鶴ヶ城には戻らず行方不明になっているはずだし郡上藩に見捨てられた「凌霜隊」が志願して日向内記の配下に入ったりはしなかったと思う。やはり日向内記は責任感、人望共にある優秀な指揮官だったのではと自分は思う。ただ、前任の山川大蔵が桁外れに優秀であったためにどうしても比べられ見下されたのだと思った。白虎隊に関しても直ぐに戻るはずがあまりにも新政府軍の侵攻が早く少年兵の心の動揺を考慮出来ずに悲劇を招いた不運が内記の人生を狂わせた。)
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2013年06月28日

会津戦争で藩を支えた山川家の女 山川二葉・山川登勢・咲子(捨松)

Yamakawa_Futaba.jpgSutematsu_Oyama_blown-up.jpg幕末の山川家は会津藩家老・山川重固(家禄1000石)と妻・艶(唐衣)との間に長女・二葉、長男・浩(大蔵)、次女・三和、三女・操、次男・健次郎、四女・常盤、末妹・捨松(咲子)がいました。(十二人の子供をもうけたが会津戦争時に生存していたのがこの七人だった。)長女・二葉は会津藩家老の梶原平馬に嫁ぎ長男・景清を生むが戊辰戦争前に若年寄や家老という執政職に就いたときに水野貞という女性と深い関係となり正妻・二葉と不仲になっていた。会津戦争の頃には二葉は長男・景清を連れて会津に帰っていたらしい。新政府軍の攻撃が激化するにつれ会津藩の子女も鶴ヶ城に籠城して戦ったが二葉もまた長男・景清を連れて籠城戦を戦ったという。母の艶(唐衣)、妹の三和、操、常盤、義妹・登勢(山川大蔵こと浩の妻)なども籠城し炊飯や負傷兵の手当て、不足した弾薬の製造などを行ったという。(また、命がけで敵砲着弾(焼玉)に水布団をかぶせて火事をを防ぐという男子でさえ出来ないことを会津女性はやっていたが敵砲弾にはこの焼玉と実際に爆発する炸裂弾があり見誤ると命を落とす。)山川家嫡男の大蔵(後の浩)の妻・登勢が照姫警護に就いていたが敵の炸裂弾に被弾、全身三箇所に重傷を負い介錯を義母・艶に頼んだが聞き入れられず苦しみながら非業の死を遂げた。(城内での死者は空井戸にまとめて埋葬されていたが登勢は幸いにも夫・大蔵の部下が居たため鎧櫃に納められ懇ろに埋葬されたという。母・艶は照姫付きの城内総取締役として奔走、妹・操は炊事を嫌い銃を持って戦ったと言われている。一方、末妹の咲子はまだ籠城時には八歳だったが焼玉消しなど照姫の側で活躍し義姉・登勢が被弾した時に共に被弾し首に軽症を負った。弟・健次郎は会津白虎隊として籠城戦を戦ったというが定かではないらしい。(あの飯盛山の白虎隊とは別隊)会津藩降伏後は長男・大蔵(後の浩)は猪苗代に謹慎後東京に出て会津藩を立て直す活動をする。会津藩は本州最北端の斗南藩として再建に尽力する大蔵は名を浩と改めた。しかし藩民総島流しのような過酷な生活の中で権大参事として若藩主(旧藩主・松平容保の嫡男・慶三郎)をたすけたが、明治四年の廃藩置県に伴い斗南藩は消滅し青森県に出仕した後に元敵方として対決した元土佐藩士・谷干城の招きを受け東京に出て陸軍に入る。一方、姉・二葉は夫・梶原平馬と戊辰戦争前に別居していたが維新後に夫の妾・水野貞が懐妊したのをきっかけに離婚が成立したという。二葉は一子・景清と共に青森斗南藩に移住した後、兄と共に上京し元会津藩士・高嶺秀夫が校長をしていた関係で女子高等師範学校(現・お茶の水女子大)の生徒取締として出仕、その後二十八年間教育者として功績を挙げ高等官となり従五位に叙せられた。次女・三和は会津戦争前に会津藩士・桜井弥一右衛門政衛と結婚、夫は二本松の戦いで腹部貫通の重傷を負い籠城戦には間に合わなかったが斗南藩移住後は白虎隊隊長として解隊式を行った。青森県で教鞭をとり後に北海道に渡って校長として教育に関わったが妻の三和も共に教壇に立ったという。三女・操は十七歳で籠城戦を戦い降伏後に小出鉄之助(小出光照)と結婚(小出光照は会津藩士で日新館では秀才といわれ藩主の小姓に抜擢されるがこれを辞退し江戸へ留学、古屋作左衛門の私塾に入門し洋学を学ぶが花見の帰りに役人に咎められ揚屋入りを命じられる。藩は小出に帰国するように命じたが小出は古屋と相談し脱藩、古屋の尽力で海外への留学することになった。横浜で出航を待っている中、鳥羽伏見の戦いで会津藩の敗戦を聞き即刻出航を取りやめて親友だった山川大蔵の元へはせ参じ謝罪して帰藩し籠城戦を軍事方として戦う。降伏後は斬首を覚悟して謹慎中の猪苗代を秋月悌次郎ら共に脱走し秋月旧知の長州藩士・奥平謙輔に面会し会津藩再興の嘆願と書生として少年二人を預ける。(山川大蔵の弟・健次郎と小川亮)斗南藩では司民掛などを歴任し辞職、佐賀県令・岩村通俊の知遇を受け佐賀県に赴任し翌年に佐賀の乱で討死)夫・小出の死後失意の操はロシア留学を決意、帰国後が明治天皇のフランス語通訳、昭憲皇太后附き女官として出仕。三女・常盤は山川家の書生をしていた徳力徳治を婿養子に迎えて山川家を継いだ。徳力こと山川徳治は子供のころから天才の誉れ高く萱野権兵衛の子・郡長正、神保修理の弟・巌之助と共に留学生七人組みに選ばれる。維新後は各地裁判所の検事正として活躍、生後八ヶ月の息子・戈登(ゴルドン)を義兄・浩の養子とした。(名前の戈登「ゴルドン」は浩が敬愛する「太平天国の乱」平定に活躍した軍人・チャールズ・ゴードンから取ったといわれている)養父・山川浩の男爵家を相続した山川戈登も実父・山川徳治に負けず劣らず天才で学者として期待されたが僅か二十四歳で急逝した。弟・健次郎は会津戦争時は白虎隊に入隊したが若年の為に一度離隊?籠城戦に加わった。降伏後は謹慎中にもかかわらず秋月悌次郎らと脱走し長州藩士・奥平謙輔の書生となり後にアメリカへ国費留学を果たす。アメリカでは難関イエール大学を一発合格し日本初の物理学教授となる。その後、東大総長や貴族院勅撰議員など功績を残し山川健次郎男爵家を興す。末妹の咲子は斗南藩移住後、貧困の為に函館の沢辺琢磨(坂本龍馬の従兄弟で元・山本琢磨と言い盗んだ金時計を質屋に持ち込んだことで江戸から逃亡し函館で日本人初の正教徒司祭をしていた。)に里子に出され彼の紹介でフランス人夫婦に引取られる。黒田清隆は明治新政府の国費留学の募集に女子も入れるべきとの発案にはじめは誰も応じるものがいなかったが西洋の暮らしに慣れていた咲子(当時11歳)ら5人がアメリカへ留学することとなった。(母・艶は咲子をもう捨てた子と覚悟を決め立派になって帰ってくるのを待つ(松)という意味で「捨松」と改名したといわれている)山川捨松はアメリカでは宣教師・レオナルド・ベーコン夫妻の家庭に寄宿しそこの娘・アリス(生涯の親友となった)と共に小中高と通い名門校のヴァッサー大学に入学し容姿端麗で英語の堪能な捨松は人気者だったという。卒業後はコネチカット看護婦養成所で上級の甲種看護婦免許を取得(五人の女子留学生の内15歳の年長者ふたりはホームシックで直ぐに帰国、残った9歳の永井繁子と8歳の津田梅子と12歳の山川捨松はその後10年間アメリカに滞在した。)明治十五年、二十三歳で帰国した捨松は二十歳までに結婚するのが当たり前の時代に婚期を逃したアメリカ娘と陰口を叩かれる。この頃既に北海道開拓使も廃止しており働き口がないまま時が過ぎていたがその頃後妻を探していた陸軍卿・大山巌が結婚を申し込む。しかし、兄・山川浩は元薩摩藩士・大山巌は会津戦争当時、鶴ヶ城に砲弾を撃ち込み会津の民を殺した(浩の妻・登勢もこの砲撃で死んでいる)張本人に大事な妹をやれるかという気持ちがあった。しかし、大山巌も粘り強く説得し捨松もデートを重ねるにつれ大山の人柄に惹かれ結婚する決意をする。当時、完成したばかりの「鹿鳴館」で初の披露宴を開き、以来捨松はその美しさ、気品で鹿鳴館の花といわれる。(写真前は山川二葉、後ろは咲子こと捨松)
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2013年05月19日

八重の桜 山本八重の妹分 日向ゆき

日向ゆきは寛永五年に会津藩御旗奉行四百石の日向左衛門と母・ちか(飯沼粂之進の娘で姉は西郷頼母の妻知恵子)の2男2女の長女として生まれる。山本八重とは六歳年下、家も直ぐ近所で小さい頃から兄弟のように育った。(八重は実妹が二歳の時に死別しているのでゆきを妹のように思っていたらしい。)ゆきは子供のころは日向よし子と名乗っていた三歳の頃に実母・日向ちかが病死したので父・左衛門は後妻に会津藩士・有賀豊之進の妹・秀が入り男子を4人もうけた。ゆきは義母にいじめられもしなかったが可愛がられもせず近所の八重や時尾と姉妹のように育ったという。父・日向左衛門は御旗奉行を務めていたが戊辰戦争の直前に町の風紀が乱れているの憂いて自ら志願して町奉行になったという。(御旗奉行より町奉行は身分が低く普通はやらないが父・左衛門は望んで降格を願い出た。)慶応四年ゆきが18歳になったころ、戊辰戦争が勃発、会津に向って新政府軍が侵攻してくるとゆきは籠城するために鶴ヶ城に入ろうとしたが既に城門は閉ざされ入ることが出来なくなった。ゆきは盲目の祖母や継母・秀、弟妹らと敵兵が真っ只中を突ききり市外に逃れ御山在の肝煎り・栗城伝吉の家に非難し終戦まで暮らしたという。一方、父・左衛門は町奉行として大町口郭門を守っていたが敵兵の狙撃を受けて落馬、それでも戦い続けたがついには負傷し敵に首を取られるくらいならと左衛門の母方の実家である加須谷大学(八百石取)の屋敷内の竹やぶで自害して果てた。兄・新太郎(20歳)は遊撃二番隊の中隊長として敵兵が占拠している飯寺奪還の為に進軍し材木町の柳土手で銃撃戦となり負傷、肩を打ち抜かれ撃てなくなると部下に介錯を命じて自刃する。日向ゆきは会津兵の埋葬がようやく許されると早速父・左衛門の遺体を捜し加須屋邸の竹やぶからボロボロの紋付と白骨化した遺体を発見し浄光寺に埋葬した。その後、兄・新太郎の部下から会津戦争時の様子を詳しく聞き兄の首をくわえてきた野良犬を追い払った村人からその首を発見し父の墓の隣に葬った。会津藩が斗南藩に転封が決まると日向ゆき達家族は徒歩で移住し裁縫などをしながら暮らしていたが義母・秀が青森での仕事の為移住したがゆきは北海道函館の元会津藩士・雑賀繁村(雑賀孫六)夫婦が二人とも体調が悪くなり困っているので手伝いに来て欲しいと頼まれ函館に奉公に出た。(雑賀繁村の妻・阿佐子は元会津藩家老・簗瀬三佐衛門の娘で日向ゆきとは旧知の仲だった)ある日、札幌から開拓使・内藤兼備(かねもと)が訪ねてきて日向雪を妻に貰い受けたいといってきた。(内藤は旧薩摩藩士で会津戦争にも従軍し会津の女性の奮迅の働きを見て嫁を貰うなら会津女性と決めていたという)最初は会津を踏みにじった薩摩を憎んで拒んでいたゆきだが内藤の情熱にほだされ結婚を承諾し札幌で祝言を挙げた。会津女性が仇敵・薩摩藩の男子と結婚した一番初めとされ山川咲子(山川捨松)と大山巌の結婚はその11年後となる。明治二十年、新島襄と結婚していた新島八重(山本八重)は仙台東華学校の開校式に夫婦で出席しその後避暑のために北海道函館に行って四日間滞在した。新島襄は幕末アメリカへ密出国する際に協力してくれた恩人・福士卯之助に会う為、札幌に移動したがそこで函館から札幌へ移り住んでいた雑賀繁村夫妻と会う。雑賀阿佐子の話から日向ゆきが札幌にいることを聞いた八重は二十年ぶりにゆきと再会を果たす。ゆきは生涯、会津に帰ろうとしなかったという(元薩摩藩士と結婚したことがゆきは後ろめたかったのかもしれない)老齢になったゆきは驚くべき記憶力で幼少期のことを息子に口述筆記させ「万年青」と書き上げたという。昭和19年に94歳の生涯を閉じた。
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2013年05月17日

八重の桜 八重の幼馴染で親友の高木時尾

Realsaitou-2.jpg高木時尾は弘化三年、会津藩大目付・高木小十郎と藤田克子の長女として生まれる。八重の山本家とは表裏の近所でもう一人の幼馴染・日向ユキとは隣どうしという間柄であった。祖母は盲目ながら大変器用で裁縫を得意とし八重やユキと三人で祖母から裁縫を習ったという。時尾の母・克子は藩内でも評判の美人であったがその血をうけて時尾は才色兼備を謳われ藩主・松平容保の義姉・照姫の祐筆(書記)に抜擢された。父・小十郎は京都で起こった蛤御門の変で戦死した為、弟の盛之輔(維新後は五郎)が家督を継いだが会津戦争では盛之輔はまだ15歳と若く藩主の側近として戸ノ口原の戦いに付き従い斥候伝令などをしたらしい、姉・時尾は籠城戦では負傷兵の看護を担ったといわれている。また、親友の八重が亡き弟・三郎の形見服を着てスペンサー銃で戦った際に前髪が邪魔で銃の照準が見えないと脇差で切ろうとしたがうまく切れなかった、時尾はその様子を見て八重の前髪を切りそろえてやったという逸話が残っている。降伏後は会津兵の遺体は罪人として半年も埋葬が認められず放置されていたがようやく埋葬が許可されたので時尾たちは遺体を会津七日町の阿弥陀寺に埋葬するのを手伝った。その献身的な行動に藩主・松平容保から阿弥陀時の墓地の一画を貰い受けたという。会津藩は新政府より斗南(青森県下北半島恐山周辺)に集団移住を強制され時尾たち家族も移住していたがそこで新選組隊長として会津戦争を戦っていた斉藤一(当時は山口二郎と名乗っていたらしい)と知り合う。(京都新撰組では副長助勤・三番隊長であったが戊辰戦争で局長・近藤勇が斬首され、副長・土方歳三が戦いの場を求めて北へ転戦した為に会津に残った新選組残党をまとめた)斉藤一(山口二郎)は五戸で篠田やそ(会津藩の名家・篠田内蔵の長女、白虎隊士中二番隊・篠田儀三郎とは遠縁にあたる。)と明治四年に結婚していたが離縁して東京に出ていた斉藤はそこで高木時尾と再開、元会津藩主・松平容保の上仲人、元会津藩家老・山川大蔵(維新後は浩)、佐川官兵衛、倉沢平治右衛門らが下仲人で時尾と再婚したという。(この経緯は今だなぞが多く解っていない)斎藤一(山口二郎)は高木時尾の母方の姓・藤田姓を名乗り、藤田五郎として生きていくことになる。しかし、何故か美人で賢く優しさを兼ね備えた会津なでしこが新選組で最も人を斬ったといわれた斎藤一と結婚したのかわからない。明治七年、藤田五郎(斎藤一)は警視庁で警官として勤め、時尾と共に東京で暮らし、西南戦争では警部補に昇進し別働第三旅団豊後口警視徴募隊三番小隊半隊長として参戦(元会津藩士達は会津戦争で敵側の主力だった薩摩藩士を積年の恨みを持って戦ったという)藤田五郎もその一人で敵・薩軍の大砲二門を奪取するなど目覚しい活躍を見せ東京日日新聞(現・毎日新聞)に報道された。その功績により政府より勲七等青色桐葉章を授与され賞金100円を賜りその後、麻布警察署警部として明治二十四年に退職(警視庁の大リストラにより47歳の斎藤は退職)。藤田五郎は時尾との間に三人の男の子をもうけ仲睦ましい生活を送ったという。晩年は藤田五郎(斎藤一)は東京師範学校附属(現・東京教育大学)の東京教育博物館の守衛長をし妻・時尾は女子高等師範学校(現・お茶の水女子大学)の寄宿舎の舎監として働きながら自宅に下宿させ生徒達の面倒を見ていたという。(時尾の長男・勉さんの嫁・西野みどりさんは時尾が見初めて縁談を勧めたといわれている)夫・藤田五郎(斎藤一)はその後、教育博物館を希望退職し妻と同じ女子高等師範学校に庶務兼会計掛として働いた。時尾は明治四十年、会津戦争の犠牲者の慰霊の為に桜の木を会津婦人達10人と寄贈し翌年には阿弥陀寺に墓地購入のために寄付を募り自らも二円五十戦を寄付したという。大正四年に夫・藤田五郎(斎藤一)が胃潰瘍の為に自宅で生涯を終えたが時尾はその十年に七十五歳亡くなった。二人は阿弥陀寺に眠っている.
写真は時尾の夫・元新選組 斎藤一(藤田五郎)(
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2013年05月16日

八重の桜 山本八重の最初の夫 川崎尚之助

川崎尚之助は但馬国出石藩の藩医の子と云われている。(実際は藩士ではあったが身分が低く町医者をやっていたらしい)天保七年出石本町で川崎才兵衛の第二子か三子(はっきりとした記録がない)として誕生する。兄の恭介が家督を相続した為尚之助は16,7歳で江戸へ出て杉田成卿や大木仲益(後の坪井為春)に師事し蘭学、舎密学(化学)を修めてかなりなの知れた洋学者となった。会津藩から江戸へ遊学に来ていた山本覚馬とは大木仲益が開いた大木塾で知り合い、意気投合したといわれている。安政四年、会津藩に帰った山本覚馬は藩校・日新館の教授に就任し蘭学所を設立したことを知った尚之助は会津藩に赴き覚馬を訪ねた、覚馬は藩に尚之助を推薦して蘭学教授として山本家に寄宿するようになった。尚之助は蘭学所から分離した砲術教授となり会津藩から大砲方頭取を要請され十三俵扶持を賜る。元治元年、京都にいた山本覚馬は一触即発の京都に西洋式鉄砲に精通した尚之助を招聘しようと会津藩に要請するが藩士ではない川崎尚之助を京都に差し向けるわけには行かないと断られる。慶応元年、会津藩は蛤御門の変で西洋式鉄砲の優位を認めようやく会津藩士に取り立てとなった尚之助は山本八重と結婚する。(正式な結婚かどうかは詳細は不明だが山本覚馬は会津藩に優秀な砲術家を引き止めておく手段として八重と結婚させたという説もある。)鳥羽伏見の戦い直後に米沢藩士・内藤慎一郎と小森沢長政が会津藩を訪れ尚之助に弟子入りをした。(当時、近隣諸国では米沢藩だけが西洋式鉄砲を導入、他藩は今だ火縄銃を使っていた。)米沢藩はさらに43名もの藩士を送り鉄砲術の指南を請い、その世話を山本家がすべて見たという。新政府軍が東北に向って進撃を開始するや米沢藩士は帰国するが内藤新一郎や小森沢長政ら数人は山本家に寄宿して会津藩との連絡係となった。鳥羽伏見の戦いで弟・三郎の死と兄・覚馬の行方不明を知らされた。会津に迫る奥羽越列藩同盟軍も持ちこたえることが出来ず父・権八も戦死した。八重は弟の袴を履き、兄から贈られたスペンサー銃を担いで出陣するも女の身ではそれもかなわず籠城戦の側女中として入城、一方で夫・尚之助は定かではないが諸説あり、城内で砲撃の指揮を取ったとも離婚して逃亡したとも言われているが城外で戦ったのでないかと思う。詳細はわからないが敢死隊副隊長として戸ノ口原で新政府軍を迎え撃ったが隊長・小原信之助が斃れたので隊長として指揮をとったが敗走、城内へ一旦退却するが敢死隊を率いて豊岡神社に布陣、小田山より城へ砲撃してくる新政府軍に大砲を仕掛けことごとく命中させ一時後退させたという。また、最後まで籠城したが降伏の条件通り他の会津藩士とともに男子は猪苗代にて謹慎となった。(八重ははじめ男装してついて行こうとしたが直ぐにばれ会津に残ったという。)翌年、他の藩士と共に東京で謹慎を続け八重ら山本家とは連絡がつかない状態が続いた。(八重と母・佐久、兄嫁・うらとその娘・みねは会津の家が新政府軍に没収されていた為に山村の山本家奉公人の家にしばらく身を寄せたが青森斗南藩国替えには同行せずに会津戦争前まで山本家に寄宿していた米沢藩士・内藤新一郎を頼っていった。この時点の記録ではまだ八重は川崎尚之助妻となっている。)尚之助は東京で謹慎を解かれたが他の藩士とは違い直ぐには斗南藩には戻らず一旦京都に滞在したというが詳しくは解らない。明治三年、尚之助は海路斗南藩に向かった。一方八重たち山本家は会津に戻っていたが明治四年に兄・覚馬が京都府の顧問をして生きているとの情報が入り一家で京都に向った(覚馬の妻・うらだけは離婚をのぞみ会津に残ったという。)山本家とは連絡を取れない尚之助は青森斗南藩士として仕えていたが三万石なれど作物もろくに獲れない貧しい土地で食料に乏しい藩民を救済する為「開産掛」を任され米調達の為に同じ藩士の柴太一郎と共に北海道へ渡った。(この時点で尚之助と八重は完全に別の道を歩んだがまだ離婚したということではなかったらしい)尚之助は函館で自称・斗南藩士を名乗る米座省三(実際には信州商人で詐欺師みたいなことをしていた)と知り合い彼の紹介でデンマーク商人デュークと広東米の先物取引を成立させた。(斗南藩には購入する現金がないため栽培中の大豆を担保にした。)しかし金に困っていた米座省三はこの先物手形を持ち出しこれを担保にブランキントン商会から借金して逃亡する。米座の借金返済がなければ広東米を受け取れなくなった。米座は東京で逮捕されたが斗南藩の大豆栽培がうまく行かず不作となり手に入った広東米も古米となってしまい米相場の下落もあって返済が出来なくなり当然デンマーク商人デュークから訴えられる。外国人の絡んだ裁判とあって法廷は東京で開かれ尚之助と柴太一郎は東京へ移送される。斗南藩はこの取引には一切関係ないと突き放し尚之助もまた個人的取引だと藩を庇ったという。身元引受人が三回も変わるトラブルや今日食べる物もない貧困生活の中、体調が悪化し重い慢性肺炎に罹った。三人目の身元引受人・根津親徳が東京医学校病院(現・東京大学医学部附属病院)に入院させたが明治八年三月に治療の甲斐なく永眠した。享年三十九歳・・・この時点で尚之助の戸籍には八重の名前はなかったという。(この裁判で八重たち山本家に迷惑がかかることを恐れた尚之助が離婚として抹消した土肥う説もある。)しかし、晩年の八重は尚之助との最初の結婚について「離縁した」とだけ言って一言も語らず会津での結婚生活を生涯話すことはなかったという。
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2013年05月15日

八重の桜「新島八重」の兄で砲術家・山本覚馬

111004_YamamotoKakuma.jpg山本覚馬は武田信玄の軍師「山本勘助」の子孫と伝えられ代々兵学家として仕えた家柄で文政十一年に会津藩砲術指南役・山本権八の長男として生まれ、妹に八重、弟に三郎がいる。長男であるため跡継ぎの教育を受け4歳で唐詩選の五言絶句を暗誦し藩校・日新館で頭角を現し22歳で砲学、特に大砲などを学ぶ為に藩命によって江戸屋敷勤務を仰せつかり勝海舟や武田斐三郎らが通っている佐久間象山の塾に入る。勝海舟らとともに西洋学を学ぶと同時に弓、馬術、槍、剣術、西洋砲術を修め翌年に帰藩して藩主より賞されている。その後、大砲奉行・林権助安定(明治に活躍した林権助は彼の孫)の江戸随行員に選ばれ江戸藩邸勤務を命じられ江戸にて西洋砲術の研究を深めた。28歳で一旦帰藩し日新館教授に就任し蘭学所を開設(この次期に江戸遊学で親しくなった川崎尚之助が訪ねて来て蘭学所経営を助けて山本家に寄宿し八重の最初の夫となる)して会津藩で近代兵器の必要性を説き刀や槍の時代ではないことを訴えるが会津藩の旧守派の反感を買い一年間の自宅謹慎処分を受ける。謹慎処分中も火縄銃から西洋銃入れ替えやペリー来航による動乱を説き大砲奉行・林権助の助力もあって軍事取調役兼大砲頭取に就任して表舞台に返り咲く。その後、覚馬は樋口うらと結婚して長女を儲けるが夭折し2年後に次女の「みね」が誕生するがまもなく藩主・松平容保が今日と守護職に任命され大砲奉行・林権助の補佐役として覚馬は京都へ赴く。覚馬は京都黒谷本陣で西洋軍隊の調練を始めるとともに蘭学所を開設する許可を得て藩士以外の人にも広く門を開いた。元治元年に起こった蛤御門の変に砲兵隊を率いて参戦し鷹司邸に立て篭もっていた長州藩家老の国司信濃らを大砲をもって殲滅した。(後に国司信濃は第一次長州征伐の責任を負って切腹)この時に激戦となり敵大砲の破片を受け、または打った大砲の硝煙によ目に傷を負ったと言われる(持病であった白内障が悪化したとも)覚馬はこの戦の功により公用役にとり立てられ幕府や各藩の名士と交わる機会を得た。慶応2年に覚馬は藩主の許可を得て武器の買い付けのために長崎を訪れドイツ商人のカール・レーマンと商談し1300挺のシュンドナーバルド・ゲベール銃を購入契約を結ぶ。「しかし、このゲベール銃は一部しか在庫がなく戊辰戦争には間に合わなかった。代金も敗戦した会津藩には払えず維新後に訴訟を起こされた」長崎滞在時に長崎養生所「精得館」にてオランダ医師・ボードウィンの治療を受けるが間もなく失明するとの診断が下る。京都に戻ると御所出入りの小田勝太郎の紹介で小田の妹・時恵(当時、13歳)が身の回りの世話をすることになる。この時期に会津藩では妹・八重と親友・川崎尚之助が結婚する。慶応四年、戊辰戦争の前哨戦となる鳥羽伏見の戦いが始まると覚馬は京に残り会津藩が賊名を受けることを憂いて伏見で戦う会津藩兵を説得する為に伏見に急ぐが薩摩・長州の新政府軍に包囲され入ることすら出来ず京都に戻って朝廷に会津に敵意がないことを訴えようとするが薩摩藩兵に拘束され薩摩藩邸に幽閉される。弟・三郎はこの戦いで戦死する。(拘束された当初は会津藩士を殺せという声もあったが覚馬の名声を知っていた薩摩藩幹部の助けもあって比較的優遇されたという)薩摩藩邸内で目が見えないこともあり小田時栄が出入り自由を認められ世話をしたという。また同じく囚われていた会津藩士の野沢鶏一に口述筆記を頼み薩摩藩主に建白書「菅見」を提出。これを読んだ薩摩藩家老・小松帯刀や西郷隆盛は痛く感動し益々藩邸内で優遇され後の明治新政府で参考されたという。明治元年に覚馬は仙台藩邸の病院に移され岩倉具視の訪問を受け翌年に釈放された覚馬は世話をしてくれていた小田時栄(当時16歳)と同棲をはじめる。明治三年、京都大参事・河田佐久馬の推薦もあって京都府庁に出仕、権大参事・槇村正直(後の知事)の顧問として当時天皇が東京に移り衰退した京都のために尽力し明治5年、日本初の博覧会(京都勧業博覧会)を開催して京都を近代都市へと導いた。槇村正直は覚馬を兄のように慕い槇村邸の隣の土地100坪を勧めて自宅を建設し自宅庭に講筵を開き政治学、経済学を講義した。(この土地は徳川慶喜の愛妾「お芳」の父親で江戸火消しの新門辰五郎の邸宅跡だった。明治四年、ようやく連絡が取れた会津に置いてきた母・佐久、妹・八重・娘のみねを京都に呼び寄せた。(父・権八は会津戦争で戦死、妻・うらは夫・覚馬が妾・時栄と暮らしていることを知ってか離婚を主張して会津に残ったという。また、川崎尚之助と八重は会津鶴ヶ城籠城戦でともに戦ったが落城寸前に別れたといわれているが不明)離婚成立後に覚馬は時栄(18歳)と再婚、この時に既に娘・久栄が出来ていた。覚馬は暴漢に襲われ脊髄を損傷して足腰が立たなくなり歩くことも困難で八重が背負って登庁したといわれる。明治八年、大阪で布教活動をしていた宣教師ゴードンから贈られた「天道溯源」を読んで大いに感動したという。ゴードンの紹介でアメリカから帰国したばかりの新島襄が山本覚馬邸を訪ねキリスト教の学校設立の相談を持ちかけ協力の約束を交わした。覚馬は戊辰戦争当時に幽閉されていた薩摩藩邸6000坪の土地を購入していたがこれを安価で譲渡し学校用地とし新島と連名で「学校設立願い」を文部省に提出して認可された。(覚馬が命名した「同志社英学校をこの土地に設立し後に同志社大学今出川キャンパスとして今に残る。)この年に新島襄と山本八重は結婚。明治十年に覚馬は京都府顧問を解任、2年後に京都初の府議会選挙において上京区で51票を獲得して選出され府議会議員となり初代議長にもなったが翌年に辞職して同志社の運営に専念する。明治十四年、覚馬の次女・みねが横井小楠の長男・横井時雄と結婚し翌年には長男・平馬(覚馬にとっては初孫)を生む。明治十八年、覚馬は京都商工会議所会長に就任し妻・時栄とともに宣教師グリーンの洗礼を受けた。(既に妹・八重や母・佐久、娘・みねは明治九年に洗礼を受けている)妻・時栄は受礼後直ぐに体調を崩し自宅に往診を頼んだ医師ジョン・K・ベリーによって思いもよらぬことを報告された。妊娠5ヶ月と聞いた覚馬には身に覚えがなく妻を問い詰めたところ、養子にと会津から呼び寄せ同志社英学校に通わせていた青年との不倫が発覚したが覚馬は年齢57歳、妻・時栄は31歳の女盛り、しかも時栄は13歳のころから目が不自由、半身不随の覚馬の世話をしてくれているので強くは言えず許すこととなったが八重と娘のみねは断固反対、「ならぬものはならぬ」と許さなかった為、山本家から追い出し翌年に離婚が成立し次女・みねが24歳で他界したためその子・平馬を養嗣子として迎える。明治二十三年、大磯で新島襄が病死すると覚馬は同志社英学校臨時学長に就任し学校発展に尽くすが二年後の明治二十五年に覚馬自身が自宅にて病没。享年六十四歳・・・山本覚馬は朝廷が東京と名を改めた江戸へと居を移し(東京遷都)薩長が見捨てた京都の再発展に力を尽くし博覧会の開催によって世界中から日本の京都に注目を集めさせた功績は大きいと思う。
posted by こん at 10:25| Comment(1) | TrackBack(0) | 会津藩 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年12月17日

「諸葛亮孔明」にたとえられた英雄 児玉源太郎

児玉源太郎は嘉永五年、周防国都濃郡徳山村の長州藩支藩の徳山藩士(百石取の中級藩士)・児玉半九郎の長男として生まれる。父の半九郎は尊皇攘夷の思想を持っていたために幽閉され悶死したと伝えられ、嫡男の源太郎が幼かった為に徳山七士の一人・浅見家から養嗣子に迎え源太郎の姉・久子と結婚して児玉次郎彦が親代わりとなって源太郎を育てたという。しかし、第一次長州征伐の時に自宅で保守派に暗殺され児玉家は家名断絶となる。藩論回復後に藩主の命によって七士達の名誉が回復され児玉家も二十五石ながらも再興が許され源太郎は中小姓として出仕して同年に馬廻りとなる。明治元年、献功隊士として戊辰戦争に出陣(初陣)し安芸口の戦いに参加し函館戦争にも従軍した後に陸軍に入りフランス式歩兵学修行の為に京都の河東操練所に入学し大坂兵学寮に入るが山口藩奇兵隊の反乱が起きると鎮圧の為に帰国する。大坂兵学寮卒業後の明治七年に起こった佐賀の乱には陸軍大尉として従軍するが負傷する。明治九年、熊本鎮台準官参謀の時に神風連の乱の鎮圧、翌十年に同鎮台副参謀長として西南戦争熊本城篭城戦で谷干城鎮台司令長官をよく助けて西郷軍を50日間の攻防の末に撃退した。この西南戦争で盟友・乃木希典は連隊旗を西郷軍に奪われる大失態を恥じて何度も自殺しようとしたが山県有朋と児玉は説得をして思い止まらせたという。(児玉源太郎は長州藩の支藩である徳山藩出身だが乃木希典は同じ長州藩支藩出身でも長府藩の出で松下村塾創設者の玉木文之進(吉田松陰の叔父)の親戚で明治政府では松下村塾閥のエリート待遇だったが児玉は乃木を親友、ライバルとして絶えず意識していたという。)明治十一年に近衛局に出仕して参謀となる。翌年に陸軍歩兵中佐に昇進
posted by こん at 16:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 坂の上の雲 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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