
2013年10月29日
「鹿鳴館の貴婦人」会津藩山川家の末娘 大山捨松

2013年09月30日
会津鶴ヶ城攻撃の砲兵隊長で後に山川捨松の夫になった 大山巌

2013年07月08日
会津藩名門家老家の悲劇 内藤家一族
内藤家は会津藩の名門の家柄で古くは武田信玄の家臣で「武田二十四将」の一人「内藤修理亮昌豊」に嗣子がいなかった為に高遠城主・保科弾正忠正敏の次男を迎えて相続させた。この内藤家は時代が下り徳川の世になると「保科正之」(徳川二代将軍・秀忠の庶子として生まれ保科家に預けられる)の臣下として会津藩に入り大老職など重要ポストを担った。戊辰戦争当時は内藤介右衛門信節が十一歳で内藤家(家禄千七百石後に二千二百石に加増)を相続し戊辰戦争の時に会津藩家老を務めた。内藤信節(のぶこと)は天保十年、会津藩内藤家9代目として誕生した。弟に梶原平馬(梶原家に養子)、武川信臣(内藤家は本家だけが内藤姓を名乗り傍流は武川姓を名乗るのがならわしだった)がいる。藩主・松平容保が京都守護職を拝命すると内藤信節は二十三歳で京都勤番となり二年後に若年寄に昇進、禁門の変の時に八隊千人の兵を率いて長州藩を撃退したが後の警護を薩摩藩に任せた為に藩主の叱責を受け若年寄を解職、蟄居謹慎させられる。翌年には復職し若年寄から家老になった。(この時に実弟・梶原平馬も家老になる。)慶応三年、会津藩は京都守護職の辞任を申し入れたが聞き入れられなかったので会津から内藤信節と梶原平馬が上京し老中・板倉に直談判し藩主の一時帰国を承諾させた。しかし、鳥羽伏見の戦いが始まるや将軍・慶喜の大阪城入城に伴い守護職屋敷を土佐藩に引き渡して大坂に下る。信節は直接鳥羽伏見の戦いには参戦せず枚方、守口方面へ戦場視察に出かけたがその間に将軍・慶喜と共に藩主・容保が大坂城を抜け出して江戸へ帰ってしまう。内藤信節はこの藩主不在を堅く口止めし急いで江戸へ向う。(会津の藩士たちが戦っているさなかのこの藩主東帰騒動の責任を取って神保修理が切腹した。)この後、奥羽越列藩同盟に実弟・梶原平馬と共に成立させ白河口の総督を罷免された西郷頼母に代わり信節が総督となるも会津戦争時に勢至堂方面の陣将として出陣したが母成峠が破れ城下に敵が押し寄せるとの報を聞き大平口の原田対馬隊を吸収して1000人余りの大部隊となって鶴ヶ城に入り三ノ丸の守備を担う。この時期に内藤家一族は入城出来ずに菩提寺のある川面村に非難したが新政府軍が菩提寺である泰雲寺辺りを包囲した為にもはやこれまでと一族十二人が揃って自決するにいたった(隠居していた内藤信節の父・信順、母・とも(つや)、信節の妻・ふさ(ひさ)、信節の長男・英馬、娘・ひで、妹のとく、つぐ、姪と叔母の計九名と家臣四名と上田家の五人が泰雲寺書院にて自刃した。会津藩降伏後、謹慎生活を終え斗南藩移住し藩の存続に尽力するが廃藩置県後、多くの藩士が会津に帰るが内藤信節はそのまま青森県五戸村に残り土地の開拓や子供達の教育に生涯を捧げ六十一歳で没した。今でも「内藤田」という地名が残っている。次弟の梶原平馬は斗南藩の移住後廃藩置県で青森県になると庶務課長となるがその後北海道根室に後妻・貞と共に移住しこの地で亡くなった。末弟の武川信臣兄弟の中でも温厚な性格で和歌を得意とした。鳥羽伏見の戦いで敗れ江戸に引き揚げたが会津藩の帰藩命令に従わず彰義隊の幡随院分屯の信意隊隊長となり二人の兄が会津藩家老となった為に藩相殿と呼ばれ八十人余りの隊士を率いて奮戦するも新政府軍に破れ再起を図って江戸市中に潜伏し佐々木只三郎の実弟・佐々木源四郎邸で密談中に小者に使っていた宗兵衛の裏切り密告により新政府側の鳥取藩士に捕縛される。(この騒ぎで応対に出た源四郎は玄関で射殺される。)武川信臣は元会津藩上屋敷のあった和倉門の獄に幽閉され彰義隊士で会津藩家老の弟という事で烈しい拷問を連日受け続けたが会津武士の意地を通し得意の和歌を残した。「君と親の重きめぐみにくらぶれば、千引の石の責はものかは」(信臣は三角木の上で正座をさせられ、ひざの上に大石を幾つも積み重ねられる「石抱きの責め」を連日に渡り行われ骨は砕け皮膚は破れ肉が裂けても黙して語らなかったという。)明治元年、大赦令が出る三日前に斬首される。享年二十四歳・・・
2013年07月03日
白虎隊士中二番隊の悲劇を生んだ隊長 日向内記

2013年06月28日
会津戦争で藩を支えた山川家の女 山川二葉・山川登勢・咲子(捨松)


2013年05月19日
八重の桜 山本八重の妹分 日向ゆき
日向ゆきは寛永五年に会津藩御旗奉行四百石の日向左衛門と母・ちか(飯沼粂之進の娘で姉は西郷頼母の妻知恵子)の2男2女の長女として生まれる。山本八重とは六歳年下、家も直ぐ近所で小さい頃から兄弟のように育った。(八重は実妹が二歳の時に死別しているのでゆきを妹のように思っていたらしい。)ゆきは子供のころは日向よし子と名乗っていた三歳の頃に実母・日向ちかが病死したので父・左衛門は後妻に会津藩士・有賀豊之進の妹・秀が入り男子を4人もうけた。ゆきは義母にいじめられもしなかったが可愛がられもせず近所の八重や時尾と姉妹のように育ったという。父・日向左衛門は御旗奉行を務めていたが戊辰戦争の直前に町の風紀が乱れているの憂いて自ら志願して町奉行になったという。(御旗奉行より町奉行は身分が低く普通はやらないが父・左衛門は望んで降格を願い出た。)慶応四年ゆきが18歳になったころ、戊辰戦争が勃発、会津に向って新政府軍が侵攻してくるとゆきは籠城するために鶴ヶ城に入ろうとしたが既に城門は閉ざされ入ることが出来なくなった。ゆきは盲目の祖母や継母・秀、弟妹らと敵兵が真っ只中を突ききり市外に逃れ御山在の肝煎り・栗城伝吉の家に非難し終戦まで暮らしたという。一方、父・左衛門は町奉行として大町口郭門を守っていたが敵兵の狙撃を受けて落馬、それでも戦い続けたがついには負傷し敵に首を取られるくらいならと左衛門の母方の実家である加須谷大学(八百石取)の屋敷内の竹やぶで自害して果てた。兄・新太郎(20歳)は遊撃二番隊の中隊長として敵兵が占拠している飯寺奪還の為に進軍し材木町の柳土手で銃撃戦となり負傷、肩を打ち抜かれ撃てなくなると部下に介錯を命じて自刃する。日向ゆきは会津兵の埋葬がようやく許されると早速父・左衛門の遺体を捜し加須屋邸の竹やぶからボロボロの紋付と白骨化した遺体を発見し浄光寺に埋葬した。その後、兄・新太郎の部下から会津戦争時の様子を詳しく聞き兄の首をくわえてきた野良犬を追い払った村人からその首を発見し父の墓の隣に葬った。会津藩が斗南藩に転封が決まると日向ゆき達家族は徒歩で移住し裁縫などをしながら暮らしていたが義母・秀が青森での仕事の為移住したがゆきは北海道函館の元会津藩士・雑賀繁村(雑賀孫六)夫婦が二人とも体調が悪くなり困っているので手伝いに来て欲しいと頼まれ函館に奉公に出た。(雑賀繁村の妻・阿佐子は元会津藩家老・簗瀬三佐衛門の娘で日向ゆきとは旧知の仲だった)ある日、札幌から開拓使・内藤兼備(かねもと)が訪ねてきて日向雪を妻に貰い受けたいといってきた。(内藤は旧薩摩藩士で会津戦争にも従軍し会津の女性の奮迅の働きを見て嫁を貰うなら会津女性と決めていたという)最初は会津を踏みにじった薩摩を憎んで拒んでいたゆきだが内藤の情熱にほだされ結婚を承諾し札幌で祝言を挙げた。会津女性が仇敵・薩摩藩の男子と結婚した一番初めとされ山川咲子(山川捨松)と大山巌の結婚はその11年後となる。明治二十年、新島襄と結婚していた新島八重(山本八重)は仙台東華学校の開校式に夫婦で出席しその後避暑のために北海道函館に行って四日間滞在した。新島襄は幕末アメリカへ密出国する際に協力してくれた恩人・福士卯之助に会う為、札幌に移動したがそこで函館から札幌へ移り住んでいた雑賀繁村夫妻と会う。雑賀阿佐子の話から日向ゆきが札幌にいることを聞いた八重は二十年ぶりにゆきと再会を果たす。ゆきは生涯、会津に帰ろうとしなかったという(元薩摩藩士と結婚したことがゆきは後ろめたかったのかもしれない)老齢になったゆきは驚くべき記憶力で幼少期のことを息子に口述筆記させ「万年青」と書き上げたという。昭和19年に94歳の生涯を閉じた。
2013年05月17日
八重の桜 八重の幼馴染で親友の高木時尾

写真は時尾の夫・元新選組 斎藤一(藤田五郎)(
2013年05月16日
八重の桜 山本八重の最初の夫 川崎尚之助
川崎尚之助は但馬国出石藩の藩医の子と云われている。(実際は藩士ではあったが身分が低く町医者をやっていたらしい)天保七年出石本町で川崎才兵衛の第二子か三子(はっきりとした記録がない)として誕生する。兄の恭介が家督を相続した為尚之助は16,7歳で江戸へ出て杉田成卿や大木仲益(後の坪井為春)に師事し蘭学、舎密学(化学)を修めてかなりなの知れた洋学者となった。会津藩から江戸へ遊学に来ていた山本覚馬とは大木仲益が開いた大木塾で知り合い、意気投合したといわれている。安政四年、会津藩に帰った山本覚馬は藩校・日新館の教授に就任し蘭学所を設立したことを知った尚之助は会津藩に赴き覚馬を訪ねた、覚馬は藩に尚之助を推薦して蘭学教授として山本家に寄宿するようになった。尚之助は蘭学所から分離した砲術教授となり会津藩から大砲方頭取を要請され十三俵扶持を賜る。元治元年、京都にいた山本覚馬は一触即発の京都に西洋式鉄砲に精通した尚之助を招聘しようと会津藩に要請するが藩士ではない川崎尚之助を京都に差し向けるわけには行かないと断られる。慶応元年、会津藩は蛤御門の変で西洋式鉄砲の優位を認めようやく会津藩士に取り立てとなった尚之助は山本八重と結婚する。(正式な結婚かどうかは詳細は不明だが山本覚馬は会津藩に優秀な砲術家を引き止めておく手段として八重と結婚させたという説もある。)鳥羽伏見の戦い直後に米沢藩士・内藤慎一郎と小森沢長政が会津藩を訪れ尚之助に弟子入りをした。(当時、近隣諸国では米沢藩だけが西洋式鉄砲を導入、他藩は今だ火縄銃を使っていた。)米沢藩はさらに43名もの藩士を送り鉄砲術の指南を請い、その世話を山本家がすべて見たという。新政府軍が東北に向って進撃を開始するや米沢藩士は帰国するが内藤新一郎や小森沢長政ら数人は山本家に寄宿して会津藩との連絡係となった。鳥羽伏見の戦いで弟・三郎の死と兄・覚馬の行方不明を知らされた。会津に迫る奥羽越列藩同盟軍も持ちこたえることが出来ず父・権八も戦死した。八重は弟の袴を履き、兄から贈られたスペンサー銃を担いで出陣するも女の身ではそれもかなわず籠城戦の側女中として入城、一方で夫・尚之助は定かではないが諸説あり、城内で砲撃の指揮を取ったとも離婚して逃亡したとも言われているが城外で戦ったのでないかと思う。詳細はわからないが敢死隊副隊長として戸ノ口原で新政府軍を迎え撃ったが隊長・小原信之助が斃れたので隊長として指揮をとったが敗走、城内へ一旦退却するが敢死隊を率いて豊岡神社に布陣、小田山より城へ砲撃してくる新政府軍に大砲を仕掛けことごとく命中させ一時後退させたという。また、最後まで籠城したが降伏の条件通り他の会津藩士とともに男子は猪苗代にて謹慎となった。(八重ははじめ男装してついて行こうとしたが直ぐにばれ会津に残ったという。)翌年、他の藩士と共に東京で謹慎を続け八重ら山本家とは連絡がつかない状態が続いた。(八重と母・佐久、兄嫁・うらとその娘・みねは会津の家が新政府軍に没収されていた為に山村の山本家奉公人の家にしばらく身を寄せたが青森斗南藩国替えには同行せずに会津戦争前まで山本家に寄宿していた米沢藩士・内藤新一郎を頼っていった。この時点の記録ではまだ八重は川崎尚之助妻となっている。)尚之助は東京で謹慎を解かれたが他の藩士とは違い直ぐには斗南藩には戻らず一旦京都に滞在したというが詳しくは解らない。明治三年、尚之助は海路斗南藩に向かった。一方八重たち山本家は会津に戻っていたが明治四年に兄・覚馬が京都府の顧問をして生きているとの情報が入り一家で京都に向った(覚馬の妻・うらだけは離婚をのぞみ会津に残ったという。)山本家とは連絡を取れない尚之助は青森斗南藩士として仕えていたが三万石なれど作物もろくに獲れない貧しい土地で食料に乏しい藩民を救済する為「開産掛」を任され米調達の為に同じ藩士の柴太一郎と共に北海道へ渡った。(この時点で尚之助と八重は完全に別の道を歩んだがまだ離婚したということではなかったらしい)尚之助は函館で自称・斗南藩士を名乗る米座省三(実際には信州商人で詐欺師みたいなことをしていた)と知り合い彼の紹介でデンマーク商人デュークと広東米の先物取引を成立させた。(斗南藩には購入する現金がないため栽培中の大豆を担保にした。)しかし金に困っていた米座省三はこの先物手形を持ち出しこれを担保にブランキントン商会から借金して逃亡する。米座の借金返済がなければ広東米を受け取れなくなった。米座は東京で逮捕されたが斗南藩の大豆栽培がうまく行かず不作となり手に入った広東米も古米となってしまい米相場の下落もあって返済が出来なくなり当然デンマーク商人デュークから訴えられる。外国人の絡んだ裁判とあって法廷は東京で開かれ尚之助と柴太一郎は東京へ移送される。斗南藩はこの取引には一切関係ないと突き放し尚之助もまた個人的取引だと藩を庇ったという。身元引受人が三回も変わるトラブルや今日食べる物もない貧困生活の中、体調が悪化し重い慢性肺炎に罹った。三人目の身元引受人・根津親徳が東京医学校病院(現・東京大学医学部附属病院)に入院させたが明治八年三月に治療の甲斐なく永眠した。享年三十九歳・・・この時点で尚之助の戸籍には八重の名前はなかったという。(この裁判で八重たち山本家に迷惑がかかることを恐れた尚之助が離婚として抹消した土肥う説もある。)しかし、晩年の八重は尚之助との最初の結婚について「離縁した」とだけ言って一言も語らず会津での結婚生活を生涯話すことはなかったという。
2013年05月15日
八重の桜「新島八重」の兄で砲術家・山本覚馬

2011年12月17日
「諸葛亮孔明」にたとえられた英雄 児玉源太郎
児玉源太郎は嘉永五年、周防国都濃郡徳山村の長州藩支藩の徳山藩士(百石取の中級藩士)・児玉半九郎の長男として生まれる。父の半九郎は尊皇攘夷の思想を持っていたために幽閉され悶死したと伝えられ、嫡男の源太郎が幼かった為に徳山七士の一人・浅見家から養嗣子に迎え源太郎の姉・久子と結婚して児玉次郎彦が親代わりとなって源太郎を育てたという。しかし、第一次長州征伐の時に自宅で保守派に暗殺され児玉家は家名断絶となる。藩論回復後に藩主の命によって七士達の名誉が回復され児玉家も二十五石ながらも再興が許され源太郎は中小姓として出仕して同年に馬廻りとなる。明治元年、献功隊士として戊辰戦争に出陣(初陣)し安芸口の戦いに参加し函館戦争にも従軍した後に陸軍に入りフランス式歩兵学修行の為に京都の河東操練所に入学し大坂兵学寮に入るが山口藩奇兵隊の反乱が起きると鎮圧の為に帰国する。大坂兵学寮卒業後の明治七年に起こった佐賀の乱には陸軍大尉として従軍するが負傷する。明治九年、熊本鎮台準官参謀の時に神風連の乱の鎮圧、翌十年に同鎮台副参謀長として西南戦争熊本城篭城戦で谷干城鎮台司令長官をよく助けて西郷軍を50日間の攻防の末に撃退した。この西南戦争で盟友・乃木希典は連隊旗を西郷軍に奪われる大失態を恥じて何度も自殺しようとしたが山県有朋と児玉は説得をして思い止まらせたという。(児玉源太郎は長州藩の支藩である徳山藩出身だが乃木希典は同じ長州藩支藩出身でも長府藩の出で松下村塾創設者の玉木文之進(吉田松陰の叔父)の親戚で明治政府では松下村塾閥のエリート待遇だったが児玉は乃木を親友、ライバルとして絶えず意識していたという。)明治十一年に近衛局に出仕して参謀となる。翌年に陸軍歩兵中佐に昇進